【読書】『三国志』

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 三国時代の、事実から、史実になり、正史が生まれ、演義へと変化する―――――という読み方は他に譲ります。

 漢帝国が中国統治に一つの答えを出したのは事実です。
 しかし、社会が変化したのに、それに対応できなくなったから、混乱が発生し、滅亡したのも事実です。
 どうしてそうなったのか?
 そして、三国の諸政権はどう対応したのか?

ポイント 三国諸政権に突き付けられた問題は?

  1. 漢帝国を上回る価値観を提出すること
  2. 名士・豪族を弱体化させること
  3. 君主権を強大化すること

漢の問題のおさらい


・ざっくりとしたおさらい
・そこでは書かなかった三国時代につながる問題
をピックアップします。

外戚・宦官

 後漢末、残念ながら幼帝が続きます。
 したがって、皇帝が幼いころには、母后の一族が外戚として権勢をふるうことに。
 成長した皇帝が、外戚を排除しようと画策すると、協力してくれるのは幼馴染の宦官。外戚を排除すると、宦官が勢力を強めてしまう。
 どこかで負の連鎖が断ち切れればよかったのに・・・・・と思うけれど、それは運が悪かった、と言えなくもない。
 この「外戚 VS 宦官」の構図が漢帝国を蝕んでしまいます。

寛治:儒教官僚と豪族の協力

 皇帝に権力を集めて直接統治する―――――韓非子的に言えば「法・術・勢」による中央集権が成功し、後代のモデルになった漢帝国。
 なのですが、塩鉄専売が招いた貧富の差の拡大。これが大土地所有者 = 豪族の出現につながります。
 ところが、豪族が単なる成金で終わらなかったのが漢帝国の救い。
 なぜか?
 それは漢帝国が儒教を採用したから。
 税金を納めるのに、貧しい農民には徭役で納めさせ、金持ちの豪族には金銭で納めさせる、という方法を儒教官僚が編み出します。
 豪族を弾圧するのではなく、支配の枠組みに組み込んでいく―――――この「寛治」という方法が漢帝国を救います。

名士の出現

 ああ、それなのに、それなのに、中央政府は何してるんだか、「外戚 VS 宦官」の権力争い。
 その構図にガッカリした人たちは、漢に出仕することをあきらめます。地方で自らの名声を高める方向に向かいます。
 そして、それに協力したのが豪族。
 ということで、地方では、名声を高めることに専念した「名士」と経済的基盤をもつ「豪族」が力を持つことになりました。

失敗した諸勢力

 「外戚 VS 宦官」の問題は、漢の皇帝が権力を失ってしまえば、自然と消滅します。
 しかし、地方に出現した「名士」と「豪族」をどうするか?
 民衆のことを考えれば問題ではないのですが、国家として考えると支配権が及ばないという問題が発生します。

漢帝国の価値観を上回ることに失敗

 『演義』では暴君として書かれる董卓。実際の董卓にそういう側面があったのは事実です。
 ところが、意外にも、三国の英雄に負けず劣らず、董卓は名士の抜擢に努めています。
 その董卓の失敗は、洛陽を焼き払ったこと。
 これが名士から大反発を食らい、急速に滅んでしまいます。
 漢帝国に問題があったのは事実。そして、それを解決しようと思えば、漢の持つ価値観を壊さなくてはならない―――――
 名士に協力を求めたところはよかったんだけど、洛陽を焼き払っても、問題は解決しないのです。

 漢の価値観を壊しながら、新しい価値観を創造する―――――董卓は、それに失敗したのです。

名士・豪族対策に失敗

 「優柔不断」と評される袁紹。
 「四世三公」という漢の正統性をもち、後漢を建国した光武帝劉秀の戦略を踏襲して河北(黄河の北)を拠点とし、名士も優遇する。
 それなのに、曹操に敗れたのはなぜか?

時代が袁紹を必要としなかったのである。求められていたのは、漢が四百年に及ぶ支配により形成した巨大な価値観が、董卓によって破壊された後、新しい時代の価値観を創り上げる者である。それは、後漢「儒教国家」の支配方法をそのまま継承していた袁紹には不可能なことであった。
 詳しくは書きませんが、同様の失敗をしたのが劉表。
 名士や豪族の協力があってこその「寛治」という統治システム。
 一見メリットのように見える「寛治」を継承すると失敗することになる。
 それはなぜか?

君主権強化に失敗

 後漢が、採用したわけではないんだけど、「寛治」という豪族を利用した統治方法の何が悪いのか?
 その理由は、公孫瓚が語っています。

公孫瓚は、支配地域内の名士を抑圧して高い地位には就けなかったのである。公孫瓚はその理由を「名士を優遇しても、かれらは自分の力によって高い地位に就いたと考え、自分への忠誠心を抱かないためである」と述べる。君主にとっての名士の問題点を的確に表現した言葉と言えよう。

 漢帝国が作り上げた、皇帝の下に中央集権化する統治システムを作り上げようとしたら、経済基盤を持っている豪族や、名声を持っている名士が邪魔になる。
 かといって、豪族や名士を排除しようとすると、公孫瓚のように滅亡してしまいます。
 考えてみれば、中央集権国家として統治システムが機能していれば、「寛治」は必要のないもの。
 もう一回、中央集権国家を作り直すためには、名士と豪族をどうやって排除するか、という問題が出るのです。

三国諸政権の対応

 三国諸政権に突き付けられた問題は?

  1. 漢帝国を上回る価値観を提出すること
  2. 名士・豪族を弱体化させること
  3. 君主権を強大化すること

 この3つの問題を上手いことやらないと、漢帝国のように滅びるか、自分たちが討伐した群雄のように滅びるか、になるのです。

曹魏の場合

 曹操が提示したのは、

  • 献帝を擁立した政治的正統性
  • 青州兵という軍事的基盤
  • 屯田制という経済的基盤
  • 「文学」という新しい価値観の創出

である。
 父親が殺されたことに激怒した曹操の徐州大虐殺は怨嗟の的となったが、献帝の擁立という方法でかわす。
 投降した黄巾軍を青洲兵として軍事力の確保。
 戦乱で荒廃した土地に流民に与えて、豪族と対立しない方法で経済力の確保。
 しかし、なんといっても、「文学」である。
 儒教的価値観を身につけた名士対策をするには、儒教にかわる価値観を作り出すこと―――――それが「文学」なのである。
 太平道や五斗米道を曹操が受容できた理由もここにある。
 儒教に対立する価値観を見出し、それを人事に組み込んでいく。
 新しい価値観を創出して、漢帝国の相対化を狙い、名士のそれとはない排除を画策する。
 この曹操の独創性がうまくいかなかったのは、後継者である。
 曹植の文学が凄まじすぎて、あきらめきれなかったのです。
 結果、曹丕が後を継ぐことになるのですが、名士に力を借りてしまった曹丕は、おおっぴらに名士対策ができなくなる。
 このことがのちに司馬氏の簒奪につながってしまったのです。

孫呉の場合

 陽人の戦いで董卓を破り、董卓に暴かれた漢の皇帝の陵墓を整備する孫堅の業績は、漢への忠義が孫氏の政治的正当性を与えることになります。
 これにより、帝位僭称した袁術から自立する口実にもなります。
 しかし、最も困ったていたのは経済力。経済的基盤があまりにも弱かったために、「なんで?」と思われるぐらい袁術にこき使われていたのです。
 江東に拠点を構えようとした孫氏にとって致命的な事件は、孫策による陸康の族滅。
 呉郡を代表する豪族「呉の四姓」―――――陸・顧・朱・張―――――の支持を得るにはどうすればいいか?
 それが周瑜である。
 「廬江の周氏」は、「二世三公」を誇る揚州随一の家柄であった。「呉の四世」とはレベルが違う家柄の周氏の協力。
 そして、孫権の名士登用策。北方名士採用に加えて、陸遜出仕―――――呉の四姓との和解になります。
 そして奇抜だったのが魯粛の「天下三分の計」。『演義』では諸葛亮発案になっていますが、史実では魯粛。
 なんといっても、天下統一は無理だからあきらめようというスタンス。ついでに劉備を第三極にしてしまえという発想。
 漢帝国が400年以上かけて作り上げてきた価値観を、根底から覆してしまったのです。
 しかし、やっぱり後継者争いで失敗します。
 二宮事件――――孫権の後継者争いでまたしても「呉の四姓」と仲違いして国力の衰退を招きます。

蜀漢の場合

 なぜ関羽だけが突出した信仰を集めるのか?
 それは後代の創作。なんだけど、劉備と関羽と張飛は商人のネットワークで結び合ったのです。
 宋の時代の山西商人が崇め奉ったからから関帝廟とかができることになるのですが、そのくだりは省略。
 劉備挙兵の頃から親交のあった「商人ネットワーク」。魯粛から借り受けた荊州出身の「荊州名士」。拠点として構えた蜀の「四川名士」。
 劉備グループはこのように多種多様な構成だったのです。

 その中で関羽とともに語り継がれる諸葛亮。
 『演義』では数々の奇策を思いついていますが、実際の諸葛亮は「常識人」。
 当たり前のことを当たり前のようにやる―――――それができないから困るんだけど―――――それが発揮されたのは四川の経済振興。
 同じ「北伐」でも「姜維の北伐」が批判されるのに対して、「諸葛亮の北伐」が肯定されるのは、内政を整えて、経済的基盤を確保したから。
 漢の再興を目指す北伐という政治的正当性。
 内政を整えて経済的基盤を整える。
 なんだけど、そこには漢を超えようとする価値観がない。
 「あの頃はよかったよね」というノスタルジックな思いしか感じられない。

まとめ

 三国諸政権に突き付けられた問題は?

  1. 漢帝国を上回る価値観を提出すること
  2. 名士・豪族を弱体化させること
  3. 君主権を強大化すること

 こういうバックグラウンドが三国時代にあったのです。