【君主論】「成功法則」に科学の「メス」を入れる
『君主論』第一五章は「人間、特に君主が称賛され、非難される事柄について」である。
私の狙いはそれを読む人にとって有益な事柄を書くことであり、したがってそれについて想像よりも事柄の現実的真理に即するのが適切と思われる。
どのように生きているかということと、どのように生きるべきかということとは非常にかけ離れているので、なされるべき事柄を重視するあまりなされている事柄を省みない人は、自らの存続よりも破滅を招くことを学んでいるようなものである。なぜならば自らの職業活動すべてにおいて良きことを実行しようとする人は、良からぬ人々の間にあって破滅することになるからである。マキアヴェッリは世間一般で言われている「成功法則」に科学の「メス」を入れたのだ―――――というと、大上段に構えすぎているかもしれない。
「PDCAを用いよう」というぐらいがちょうどいいかもしれない。
「事実を挙げて、検証しよう」と言っているのだ。
ということで、
- 「気前が良い」 VS 「けち」(トスカナ語:できるだけ自分の所有物を使わない人)
- 「物惜しみをしない」 VS 「強欲」
- 「残忍」 VS 「慈悲深い」
- 「軟弱で臆病」 VS 「残忍で勇敢」
- 「へりくだっている」 VS 「傲慢」
- 「好色」 VS 「潔癖」
- 「信頼に足る」 VS 「狡猾」
- 「気むつかしい」 VS 「親しみやすい」
- 「重々しい」 VS 「軽薄」
- 「宗教心がある」 VS 「神を信じない」
などなどを、考察する。
君主は自らの地位が奪われるような悪評を避けうるほどに賢明である必要があり、また自らの地位の存亡にかかわらない悪評でも可能なかぎりそれを避けうるほどに賢明である必要がある。最も後者の場合それが不可能であれば、あまり気にすることなく、そのままにしておいてよい。評判よりも権力。名よりも実。
とは言っても、
邪悪な行為を行うことなしに支配権を救うことが困難な場合にはその悪徳の評判を気にするには及ばない。それというのもすべてをよく考察してみるに、美徳と思われる行為も自らの破滅を招くことがあり、悪徳と思われる行為から自己の安全と繁栄が生ずる場合があるからである。と言ってしまうのがマキアヴェッリ。
歯に衣は着せないというか、筆にキャップをつけないというか、身もフタもないというか。
こういうことを言うからモラリストたちに、「けしからん」と言われたのだろう。
しかし、どんな人でも「破滅」は免れたいところ。「繁栄」が目指すところ。
わざわざ罵られる必要はないが、それでも破滅を避け繁栄を目指すために、ある程度毒づかれることは仕方がない。
そのために、世間一般で言われている「成功法則」に科学の「メス」を入れ、
「本当のところどうなの?」
という論陣を張ったのである。