【読書】『人口減少社会の未来学』【クールで計量的な戦略を立てる】
「ずいぶん、いろんな角度から切り込んでくれたな」
というのが最大の感想。
ブログネタとして考えたら、数多くのエントリーを書けるという嬉しい面がある。
一方で「こういうことも勉強しなければいけないのか」という困った反面もある。向学心のためにはいいことなんだけど。
「うかつに感想を書こうとすると、あっちこっちに話が飛んでしまう」
となってしまう理由を、各章のタイトルを挙れば理解していただけるだろう。
- 文明史的スケールの問題を前にした未来予測
- ホモ・サピエンス史から考える人口動態と種の生存戦略
- 頭脳資本主義の到来―――AI時代における少子化よりも深刻な問題
- 日本の”人口減少”の実相と、その先の希望―――シンプルな統計数字により、「空気」の支配を脱する
- 人口減少がもたらすモラル大転換の時代
- 縮小社会は楽しくなんかない
- 武士よさらば―――あったかくてぐちゃぐちゃと街をイジル
- 若い女性に好まれない自治体は滅びる―――「文化による社会包摂」のすすめ
- 都市と地方をかきまぜ、「関係人口」を創出する
- 少子化をめぐる世論の背景にある「経営者目線」
- 「斜陽の日本」の賢い安全保障のビジョン
「ホモ・サピエンス」はまだしも、「武士」まで出てくるとは思わなかった。
人口減少は、複雑な要素が絡んだ結果なのだから、色々な見方あって当然―――――
―――――なんだけど、いろんな見方を一つにまとめるようなことはできないので、「因数分解」して別々のエントリーにまわすことにしよう。
ということで、例によって3つだけ書こう。
それを悲観していても、ノスタルジックに浸っていても、何も解決しません。
私たちにもできることはある。
できることを考え、手を打つ。
それを繰り返していけば、希望も持てるし、解決策も生まれます。
クールで計量的な知性
今年の18歳の人口は、18年前に分かる
これは当たり前のことなのですが、当たり前のことを、当たり前のこととして、考えられないのです。
「先のことを考えない」という心的傾向は大学にいるとしみじみ実感できます。大学にとって喫緊の「人口問題」は18歳人口です。そして、ある年度の18歳人口は18年前にわかります。つまり、志願者の増減にかかわる問題については18年前から取り組み開始が可能だということです。これは大学でなくても、行政でも、企業でも、同じことです。
現状、人口減少しているのだから、マーケットも縮小するし、労働者も減っていく。
なので、いわゆる「スモールビジネス」を実行した方が、成功する確率が高いのに、というか成功させてみたところで―――――人気がない。あるいは評判が悪い。
それでも、研修会で将来的な志願者減が告知されてから、僕自身は「18歳人口増を理由に入学定員を増やしたのだから、同じロジックで、18歳人口減に伴って入学定員も減らすのが、教育研究のレベルを維持するための合理的な解だと思う」というダウンサイジング論を学内で訴えました。
信じられない愚策だと頭ごなしに怒鳴りつけられたことさえありました。
僕のような「小商い」へのシフトを主張した人間は「敗北主義者」のレッテルを貼られて冷や飯を食わされていたのでしょう。内田樹さんの「愚痴」に便乗して、ぼくも「愚痴」ってしまいました。すみませぬ。
頭を冷やせ
内田さんの指摘することは、
- 日本社会には最悪の事態に備えて「リスクヘッジ」をしておく習慣がない
- 「最悪の事態」を予測すること自体を「敗北主義」として忌避する
- それを「悪い」言っても、仕方のないこと
- 上記のことを想定して考えること
おっしゃられるように
「なんで理解しようとしないんだ」
と愚痴を言っていても、文句を言っていても。何も解決しません。
分からない人には、分かりません。
僕たちがこれから行うのは「後退戦」です。後退戦の目標は勝つことではなく、被害を最小化することです。「どうやって勝つか」と「どうやって負け幅を小さくするか」とでは頭の使い方が違います。
だから、後退戦で必要なのはクールで計量的な知性です。まずはそれです。イデオロギーも、政治的正しさも、悲憤慷慨も、愛国心も、楽観も悲観も、後退戦では用無しです。ステイ・クール。頭を冷やせ。大切なのはそれです。よく考えてみれば分かることなのですが、人口減少社会でもうまくやっている企業はあるし、過去最高益を更新している企業もある。
うまくやっている企業はビジネス誌に載っています。なので、そこから勉強して、学習し、真似をし、自分のビジネスに取り込んでいく。
だいたい、日本のGDPの推移を見れば分かることなのですが、まだ落ちてはいないのです(ほぼ横ばい)。
なので、ビジネスの分野だったら打つ手はありますし、事実、打てます。
「打てる手」を打ち続けていけば、未来を悲観することありません。
人口減少は止められないかもしれません。
しかし、だからといって未来を明るくするか暗くするかは、今現在を生きている私たちしだいなのです。
「頭を冷やせ」
内田さんの言葉を胸に刻んでおきましょう。
未来予測は当たらない
他人に指摘されるまで気がつかなかった迂闊な話が、ここ最近のブログネタになっているのが、恥ずかしいところ。
ギャンブルの予想すらまともにあたらない。ビジネスの1年2年の経営計画すら当たらない。
それなのに、10年先、20年先・・・・・50年先の人口予測なんて当たるわけがないのです。
事実、20世紀が終わるほんの少し前までは、「人口問題」といえば「人口爆発問題」だったのです。
それが、いつの間にか「人口減少問題」に摩り替わってしまった。
1970年代に考えた2020年の人口予測がものの見事に外れたのに、2020年に考えた2070年代の人口予測が当たるわけがありません。
「18歳の人口は18年前に分かる」のと「来年(あるいはその先)の出生数が分かる」のとは、まったく別の話なのです。
それなのに、50年後の予測が当たる前提で議論を進める態度は、軽率である。
現在の若い世代が子どもを産まない理由がはっきりとしていないように、昭和20年代のベビーブームも未だに解明できていないのです。
昭和20年代だって、子どもの預け先・経済状態・将来の見通しは最悪だったのだ。それなのに、出生数は増えたのです。
少子高齢化は、30年から50年は進むと思われるが、その先はどうなるかわからない。
少子化が避けられない前提であるのだとしても、その少子化の結果、われわれの社会がどんなふうに変化するのかについては、いまのところ誰も答えをもっていない。中世ヨーロッパの歴史を紐解くと、産褥の床で死亡する女性が多い。この理由は明確で、医療技術が劣悪だったからだ。
大切なのは、時代を前に戻さないことだ。
出産に至る男女の設定を正常化するために戦前の民法が想定していたカタチの「家」を「取り戻す」みたいな妄念に取り憑かれることだけは、なんとしても拒絶しなければならない。
産まれた子どもの死亡率が高いうえに、出産後の女性の死亡率も高い。そのような劣悪な医療技術で人口を維持するには、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式で、産み続けるしかない。
そのような社会で考えられた「生活スタイル」が現代文明に適合しなくなっているように、戦前の「生活スタイル」も現代には適合しない。
技術は必ず進歩する。そして、それに合わせて僕たちも変化する。
悪い技術進歩もあったかもしれない。しかし、幸せになれる技術進歩もあったのです。
悪い技術進歩は排除し、幸せになれる技術進歩を有効活用して、自分たちの幸せをつくる。
村落共同体、血縁共同体、利益共同体(たとえば会社)が、生み出された当初は、優秀なシステムだったのでしょう。
しかし、それが、現代社会に適合しなくなっているのなら、新しいシステムをつくればいい。
「昔はよかったね」といった、ノスタルジアに浸っていても、何も解決しません。
人口減少問題への答えは、「経営者目線」の人間の思想の中には存在しない。私たち人間は、養鶏場のニワトリではない。「労働人口」や「マーケット」のために子どもを持つのではない。
答えは、われわれ一人ひとりが、自分たち自身の人生を自分なりに生きていく暮らしの中にあらかじめ含まれている。「家」という物語に回収されてはならない。
ましてや、「労働人口」や「マーケット」という経営者マインドの物語に踊らされてはならない。われわれは養鶏場のニワトリではないのだから。
カゴが悪いのなら、より良いカゴを探しに行くことができる。エサが悪いのなら、よいエサを探しに行くことができる。
養鶏場のニワトリではないのだから、自分で、自分の幸せを手に入れようとすることはできるのです。
文化による社会包摂
岡山県奈義町の取り組み
岡山県奈義町は、人口6000人あまりの山村だが、合計特殊出生率2.81と驚異的な数字をあげた。
奈義町の「子育て支援」に、取り立てて目玉のようなものはない。他の町がやっているいいことを、最高水準で行う、というシンプルなもの。
「子育て支援」よりも重要なのことは、町ぐるみで子育てを応援する雰囲気をつくっていること、だ。
奈義町は、横仙歌舞伎という農村歌舞伎を守り続け、子ども歌舞伎も毎年開催している。そういった文化的な厚みがある。
親の世代の方が二世帯住宅を好まないそうだ。自分がした苦労を子どもにさせたくない、という人としての気遣いもしている。
ゆえに、近隣からの移住者も多く、それが出生率の上昇に繋がっている。
日本で、待機児童の問題を抱える自治体は全体の4分の1にも満たない。他の千数百の自治体は、子どもが欲しくてたまらない地域なのだ。つまり、地方都市に住む人々が結婚をしてさえくれれば、子どもが増えるのである。
ここから得られる結論は、
「U・I・Jターンで若者が地方に移住して、結婚してくれれば、子どもは増える」
のである。
しかし、そうことが上手く運ばなかったのはなぜか?
文化による社会包摂(ソーシャル・インクルージョン)
保育園に子どもを預けた母親が、ファミレスで談笑していたら通報されたという噂が信じられている。「文化による社会包摂」という言葉が、少しずつではあるが世間にも浸透してきた。社会包摂=ソーシャルインクルージョンとは、要するに、今まで社会から排除されてきた人々を、文化によって社会に繫ぎ止める、包み込むという考え方だ。
子どもを保育園に預け、スポーツクラブに行ったら、ネット上で批判された芸能人もいる。
「なにもそんなことで」と思うが、そんな状況で「子育て支援」も無駄になる。
それに類することを、ホームレスや、失業、生活保護でも、同じようなことをしてしまったのではないか。
誹謗中傷により、被害者に社会からの疎外感を与えてしまう。
社会からの疎外感を与えず、社会との一体感を持ってもらうには、どうしたらいいか?
日本に存在していた地縁血縁型共同体は崩壊した。それに変わった利益共同体も崩れた。日本には教会のようなものは少ないので、宗教にも頼れない。
それに代わって「関心共同体」を作ろうというのが、平田オリザさんの提案である。
奈義町の例でいえば、横仙歌舞伎のような「文化」をつくり、社会の一体感をつくり出す。
そして、それを自治体の取り組みに入れればいい。
ファミレスで談笑するのも「母親共同体」だと考えれば、これほど優れたものはない。子育てのストレスの発散にもなるし、悩みの相談もでき、情報交換してより良い子育ての方法を教えてもらえるかもしれない。
スポーツクラブだって、友だちが増えれば同様のことができる。
男だって、行きつけの居酒屋で一杯ひっかけて常連さん同士で仲良くなることもある。
それに、SNSだってある。共通の趣味で「関心共同体」は作れるのである。
U・I・Jターンで、「豊かな自然」をアピールしても、成功しなかった理由の一つは、「豊かな自然」は日本中にあるからだ。
それ以外の、「プラスα」を作る。文化、あるいは、関心共同体。
それに気づいた自治体と、気がつかなかった自治体で、大きな差が出るのも、当然のことだ。差別化できるからだ。
自己決定能力
自治体が「子育て支援」をしてくれればありがたいが、それに頼っているだけでは、カゴの中のニワトリと同じではないか。どんなに素晴らしい街を創っても、自己決定能力がなければ若者たちは東京になんとなく吸い寄せられていく。自己決定能力をつけても、街自体に魅力がなければ、若者たちは戻ってこない。二つが車の両輪とならなければ、人口減少は止まらない。
私達はニワトリではない。快適なカゴを探すことができる。美味しいエサを探しに行くこともできる。
しかし、「自治体が用意してくれないから」ではニワトリになっているのと同じである。
それだけでは足りない。「自治体が用意してくれたカゴ」を「更に素晴らしいカゴ」にするのは―――――私たちである。
「車の両輪」なのだ。「自治体の努力」と「私たちの努力」。
奈義町の例で言えば、子育て支援は「自治体の努力」であるが、横仙歌舞伎や自分と同じ苦労を子どもの世代にはさせたくないというのは「私たちの努力」である。
誹謗中傷は、そのどちらの努力もムダにしてしまう。
文化、あるいは関心共同体。そこまでできなかったとしても、自分がされて嫌だったことを他人にはしないという当たり前の気遣い。
「私たちの努力」でできることはあるのです。
まとめ
原因は不明ですが、何らかの変化があって、人口減少社会になってしまいました。
それを悲観していても、ノスタルジックに浸っていても、何も解決しません。
私たちにもできることはある。
できることを考え、手を打つ。
それを繰り返していけば、希望も持てるし、解決策も生まれます。