【読書】『ローマ人の物語 ローマは一日にしてならず[下]02』【イタリア半島統一】

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ギリシア視察

 それまでのローマの法は不文律の集成で、法律に通じているのは貴族階級に限られていた。
 これに不満をもった民衆が、成文化を要求したのである。誰でも読むことのできる客観性をもった形にすべきであるという、至極もっともな要求である。
 要求が妥当であるだけに、貴族側も無視できない。貴族の中の協調派も、この件では平民側と歩調を共にしていた。
 それで、成文法の先進国ギリシアに、視察団が派遣された。

 ギリシアに訪れたローマの使節団が見たのは、「ペリクレス時代」と呼ばれるアテネの絶頂期であった。
 にもかからわず、ローマ人はアテネの模倣をしていない。
 アテネ衰退後のギリシア世界の覇者となるスパルタの模倣もしていない。
 衰退期に入った国を視察して反面教師とすることは誰にでもできる。しかし、絶頂期の国を視察してその国のマネをしないというのは、常人の技ではない。

 自由と秩序の両立は、人類に与えられた永遠の課題の一つである。自由がないところには発展はないし、秩序のないところでは発展も継続できない。とはいえこの二つは、一方を立てればもう一方が立たなくなるという、二律背反の関係にある。
 スパルタは閉鎖的でありすぎた。他国との関係にとどまらず、自国内でも階級が固定されていた。
 アテネは、一見両立しているように見える。ただし、それはペリクレスの手腕があってこそである。事実、ペリクレスの死後、アテネは衆愚政に陥り、衰退に向かう。
 同時代人のツキディデス『ペロポネソス戦役』は、ペリクレス時代のアテネをこう表現する。
「外観は民主政だが、内実はただ一人が支配する国」
 三人のローマ視察団もそのことを見抜いたのだろう。

 紀元前四四九年「十二表法」が発表される。
 平民は当然ながら、協調派の貴族ですら唖然とする。新しく加えられたものは、何もなかったからだ。
 あまりにも評判が悪すぎて、改定が相次いだ。現代の専門家でも三分の一くらいしか分かっていないそうだ。

 ローマの平民と貴族の対立は、両者ともに善良で有能であったからこそ、かえって始末が悪かった。
 平民たちが求めたのは、借金返済不可能時の身柄保護、貴族に豊かな土地が配分される農地法の是正、である。
 少数寡頭政を改めよ、とまでは要求していない。
 それに、ローマはアテネと違って、陸上に生きる国家である。そして、ローマ市民は軍役の義務をもつ。
 兵士ほど指揮官の能力に敏感なものはいない。無能な指揮官の下では、無意味に命を落とすことになるからだ。また、指揮官不在の軍隊は戦力にならないことも、長い戦役体験が教えたことだろう。

 そんなローマに、前三九〇年ケルト人が来襲する。七か月間占拠され、破壊された挙句、身代金の支払いで開放される。

ケルト・ショック後

 紀元前三九〇年以後のローマ人の課題は、

  1. 防衛を重視しながらの、破壊されたローマの再建
  2. 離反した旧同盟諸部族との戦闘と、それによる国境の安全の確保
  3. 貴族対平民の抗争を解消することでの、社会の安定と国論の統一。これは、必然的に政治改革を意味することになった。
  4.  公共施設の再建は国の費用でまかなったローマも、私用のものには手が回らなかった。
     そこで、私用のものは市民の意欲にまかされた結果、統制のとれないものになってしまった。

     離反した同盟諸国を再度攻略し、同盟を締結し「ローマ連合」を再構築する。
     同盟締結はローマとの間だけで結ばれ、加盟国間で結ぶことを許さなかった。敗者に強いた非平等的な同盟関係であることは確かだ。
     しかし、敗者には財産没収と奴隷化が常態であった時代に、異例に寛容であったといっても言いすぎではない。
     ローマは、敗者を隷属化するよりも、敗者を「共同経営者」にするという、当時では他国に例をみない政略を選択したのである。

     紀元前四世紀半ばのローマ人には、抜本的な改革を実行するに際しての諸条件が整っていた。

    1. ギリシアの地でのポリスの衰退
       スパルタ的な社会の弊害は、保守派でも悟る。アテネ的な行きすぎな社会の弊害も、急進的な平民層も悟った。
    2. 平民階級の力の向上
       紀元前四四五年に”解禁”されていた貴族平民間の婚姻の成果が明らかになり、平民階級にも人材が輩出するようになった。

     紀元前三六七年「リキニウス法」が成立する。
     二人の執政官制度に戻すことが決まった。ついで、共和国政府すべての要職が、平民階級にも開放されることが決まった。
     役職を貴族別平民別に分けていたら、まずもって機会の均等に反する。差別を廃する目的でなされたものが、差別を定着させる結果になる。
     また二分したままでは両者の代表がにらみ合いを続けるようなものでは、国内が二分される。抗争の火種を抱えたままでは、政治改革の名に値しない。
     ローマ人は全面開放を選んだ。この選択の最上の利点は、利益代表制度を解消してしまった。
     そして、共和政ローマの元老院は、貴族階級の牙城であることをやめたのである。元老院議員になるためには、生まれも育ちも関係なくなり、経験と能力が問われるだけだった。
     元老院議員も、もともと世襲ではなかった。したがって、より純粋に、経験と能力に優れた人々の集まりに変われたのである。
     これ以降のローマは、貴族政ではなく、寡頭政に変わる。少数の者が多数を統治することは同じでも、その少数の血は問われない。
     ポリビウスは次のように述べる。

    「われわれの知っている政体には、次の三つがある。王政と貴族政と民主政である。ローマ人に向かって、あなたの国の政体はこの三つのうちのどれかとたずねても、こたえられるローマ人はいないだろう。(中略)ローマの政体は、この三つを組み合わせたものなのである。」

    ターラント戦争

     山岳民族サムニウム族を降したローマは、南伊のギリシア人都市ターラントと対決することになる。

     自衛能力はもたないが経済力を持つターラントが採用したのは、エピロスの王ピュロスである。
     当時の地中海世界では最も高名な武将に祖国防衛を依頼する。
     傭兵条件の細部は知られていないが、ターラントはピュロスに三十五万の歩兵と二万の騎兵を用意すると約束した。
     ピュロスを迎えたターラントの街は―――――野外劇場や体育館は市民たちでいっぱいで、約束の三十七万の兵にいたっては影さえも見えない。
     怒ると同時に呆れたピュロスは、劇場と体育館の封鎖を命じる。これが傭兵を雇ったつもりでいたターラントの市民の不興を買う。

     そうはいっても戦争に適した夏は近づいてくる。ローマ軍も近づいてくる。ピュロスは手勢の二万六千五百の兵と十八頭の象で戦う決心をする。
     対するローマ軍も、執政官レビヌスの率いる半分の兵力だけである。ローマもピュロス同様三十七万の兵を用意するといったターラントの約束を真に受け、合体を怖れたからである。
     ターラントの財力をもってすればシチリアだけではなくアフリカからでも傭兵を集めることは可能であったのだから、約束を信じるほうが当然である。
     ただ、自ら血を流して祖国守った経験のないターラント人は、存亡の危機が迫っているのに、それを感知する能力も失っていたのだった。

     第一戦はピュロスの勝利に終わる。ローマ軍は七千の死者を出すが、ピュロスも四千の戦死者を出す。
     ローマ軍の損失は補充ができたのの比べ、ピュロスの損失はエピロスから連れてきた手勢である。替えはきかない。
     とはいえ、ローマ軍敗退の報を受け、ローマの勢力圏に組み込まれたことに不満を持つ人々がピュロス軍に志願する。数の上では損失を取り戻したピュロスは、首都ローマを攻めることにする。
     しかし、「ローマ連合」の加盟国はローマに反旗を翻さない。ナポリも、カプアも、サムニウム族ですら。
     ローマは、建国以来はじめて、兵役の義務が免除されている無産市民まで招集して万全を期していた。ターラントとは対照的に、ローマ人は事の重大さを理解していたのである。
     しかし、ローマ人の怖れていた事態はやってこなかった。「ローマ連合」が解体しなかったことに嫌気がさしたピュロスは、引き返してしまったのである。

     ターラントに戻ったピュロスは、ローマに講和を提案する。自分とローマの講和というよりも、ローマとターラントの講和の仲介をするというものである。
     このローマとピュロスの交渉の過程を見ていると、戦端を開きながらも相手に対する敬意は失わない、施しは受けないが人権は尊重する、お互いの美学とか美意識とか呼ばれるものを感じる。ピュロスの雇い主も、もっとひとかどの人物なり、高尚な都市であったならば、持てる力をフルに発揮できたと思われる。
     決着は戦場でつけるしかない―――――第二戦が始まる。ここでもピュロスは勝利する。
     ローマ軍は執政官一人と六千人の戦死者を出す。ピュロスも三千五百の戦死者を出すのだが、ピュロスはスッキリしない。

    「ローマ軍に勝つたびに、わが軍の戦力は減っていく」
     ローマとの戦いに飽き飽きしていたピュロスの下に、シラクサのギリシア人からの援軍要請が来る。詳しく問いただすこともなく、ピュロスはシラクサに立つ。
     シチリアでピュロスを悩ませたのは、敵のカルタゴ人ではなく、援軍要請をしてきた同胞のギリシア人だった。
     ギリシア人の仲間割れや裏切りにピュロスは翻弄される。
     三年の空費と、半分になった手勢。それがピュロスのシチリア行きの結果だった。

     ターラントの市民たちもシチリアのギリシア人と変わらない。戻ってきたピュロスを白い眼で見るだけで、立て直す援助すら惜しんだ。
     対するローマ軍はこの三年を空費しなかった。「ローマ連合」を固めるのに費やしたので、加盟国はハッキリとローマ側にあった。
     前二七五年の夏のピュロスとローマ軍の戦いは、三度目にしてローマ軍が勝利する。
     その年の秋のはじめ、ピュロスはこっそりとターラントを立ち、エピロスに戻る。
     ピュロスの征西に従った二万八千五百の兵士のうち帰国できたのは八千の兵と五百の騎兵のみ、象が何頭帰国できたかは知られてはいない。
     ピュロス自身も、三年後、スパルタとの戦闘中に討ち死にする。

     紀元前二七二年、ターラントへの攻撃が開始される。
     他者にすがる望みを絶たれたターラントは簡単に陥落する。
     陥落後のターラントを、ローマは同盟国にした。しかし、「ローマ連合」のほかの同盟国とは違い、完全な自治権を与えなかった。ローマは南伊きっての良港をもつターラントを、直轄の海軍基地にする気でいたからである。

     ローマは、北はルビコン川から南はメッシーナ海峡にいたるイタリア半島の統一を完成する。