【読書】『サイコパス』
一言で言えば口がうまく、主張や態度をコロコロと変え、自己中心的で支配欲が強く、己の過失の責任は100%他人にあるような物言いをし、誇大妄想に取り憑かれているように見える。この人はいったい何をやりたいんだろう、何が楽しくて生きているのだろう、というふうに疑問を感じさせる著名な政治家や実業家が、誰にも幾人か思い浮かぶのではないでしょうか。
しかし、彼らには周囲の人間が敵に見えており、それゆえ今ある世界を壊さずにはいられない。自分が破壊した結果を前にしても、とくに何とも思わない。あらゆる対象への愛情や愛着が欠如しているから、仕事に対する責任感が芽生えることもない。今の仕事への満足感が低く、次から次へと関心を移し、付き合う人間も取り換えていく。
「自分勝手で嫌な奴」
ということになるだろうが、事はそう単純な話ではない。
サイコパスには、その実態を指し示す適切な訳語が未だにないそうだ。
精神医学では「サイコパス」ではなく「反社会性パーソナリティ障害」という診断基準になる。しかし、これもそう単純なものではないのは、後述する。
近年、脳科学の劇的な進歩により、サイコパスの正体が徐々にわかってきた。脳内の気質のうち、他者に対する共感性や「痛み」を認識する部分の働きが、一般人とサイコパスとされる人々では大きく違うことが明らかになってきた。
また、サイコパスは必ずしも冷酷や残虐な殺人犯ばかりではなく、企業のCEOにも存在することが分かってきた。
「サイコパス = 悪」という単純な図式ではなく、サイコパスの特徴を有効活用して社会に組み込むこと。
また、自分にサイコパスの傾向があったとしても、社会に適応するような言動を取ること。
サイコパスであったとしても、社会に害をもたらさず、むしろ有益であるような言動をしているのならば、何も問題はないのである。
サイコパスの特徴
すべてに該当しなくても、いくつかの項目が該当する人を、何人か思いつくのではないだろうか?
- 外見や語りが過剰に魅力的で、ナルシスティックである。
- 恐怖や不安、緊張を感じにくく、大舞台でも堂々として見える。
- 多くの人が倫理的な理由でためらいを感じたり危険に思ってやらなかったりすることも平然と行うため、挑戦的で勇気があるように見える。
- お世辞がうまい人ころがしで、有力者を味方につけていたり、崇拝者のような取り巻きがいたりする。
- 常習的にウソをつき、話を盛る。自分をよく見せようと、主張をコロコロと変える。
- ビッグマウスだが飽きっぽく、物事を継続したり、最後までやり遂げるは苦手。
- 傲慢で尊大であり、批判されても折れない、懲りない。
- つきあう人間がしばしば変わり、つきあいがなくなった相手のことを悪く言う。
- 人当たりはよいが、他者に対する共感性そのものが低い。
とはいっても、サイコパスとは、シロかクロかというようなものではなく、「グレーゾーン」のように強弱をもって存在している。
中野信子さんによると、”おおよそ100人に1人位の割合”でサイコパスがいる、そうだ。
もちろん、サイコパスではない人のすべてが善人ではないように、すべてのサイコパスが悪人であり犯罪予備軍というわけではない。
「サイコパス = 犯罪者」といったレッテル貼りは、非常に危険である。
しかし、サイコパスの性質を知らないと、ときには悪意を持ったサイコパスに都合よく利用されてしまう怖れがあるから、気をつけたい。
ネットスラングで「ルールハック」と呼ばれている、隠されたゲームのルールや社会の秩序を見つけたとき、それを悪用しようとする人、抜け穴を使って他者を出し抜いたり、ひとりだけ規則に従わずに済ませたり、面従腹背していいとこ取りするような行為。
普通の人なら反道徳的な行為はやらない。やらないほうが安全だとわかっているからだ。また、罪悪感を感じてしまい、ブレーキをかけるからだ。
しかし、サイコパスは、危険だとは思わない、罪悪感も感じない。
サイコパスは、自分の欲望を満たすための合理的な方法を学習して実行する。そこには、他者への共感性、恥・罪の意識、倫理観も欠如している。
とはいえ、サイコパスは他人の気持ちに「共感」はできなくても、「理解」はできるのだ。ただし、それはモラルやマナーから生まれるものではなく、そうしたほうが戦略的だからという理由で。モラリスティックに振る舞うほうが「トク」だと理解している。そして、その演技にも長けている。
男性よりも女性のサイコパスが少ないという指摘がある。それは、”誤診”が多いからではないか、という指摘がある。
自己中心性・利己性・無責任さ・人を騙すという特徴を持つ人間に対し、精神科医は、男性であれば「サイコパス」と診断するが、女性には「演技性パーソナリティ障害」「自己愛性パーソナリティ障害」「境界性パーソナリティ障害」と異なる診断を下している可能性が指摘されている。
また、「サイコパスは支配的で攻撃的だ」「女性はそういう存在ではない」という先入観が、女性のサイコパスを見落とさせる。
女性は男性よりも、家庭、家族、恋人などのプライベートな領域で周囲に危害を加えるため、見つかりにくい、通報されにくい。
また、表向きだけ反省して、行動を改善したいと思っているように見せかけるのが巧みなため、目立たないという指摘もある。
ただし、実際に治療に対しては、不服従であったり、出席率も低かったりします。見るからに反抗的な態度をとるのではなく、表面的に取り繕いながら自分勝手なふるまいをするのが得意なのである。
このことから言えるのは、プロの精神科医ですら見落とす、間違えるということだ。したがって、素人が判断を下すには危険を伴う。
とはいえ、強弱があっても、サイコパスの傾向のある人の対応策はあまり変わらないだろう。
「サイコパスだから・・・・・」というレッテルを張って排斥するのは危険を伴う。
そうではなく「こういうことがあったから、次から対策を練る」という方が、倫理的で建設的なリスク対策だろう。
サイコパスには、不安、恐怖、緊張を感じにくい、という特性を有効活用すれば、大企業の経営者、ベンチャー企業、外科医、などには適性がある(後述)。
また、冷静に合理的な思考をめぐらせるため、困難な状況や逆境を乗り越えるときには、心強く感じられるだろう。
サイコパスの脳
サイコパスは脳の「偏桃体」と呼ばれる部分の活動が、一般人と比べて低い。
偏桃体は、人間の快・不快や恐怖といった基本的な情動を決める。考えるよりも先に、いわば本能的に反応する部分、基本的な情動の働きが弱い。
ゆえに、恐怖や不安といった情動よりも、理性・知性が働きやすい。一般人が異様に感じるほど合理的な結論を選ぶ、という理由も納得ができる。
前頭前皮質のうち、「眼底前頭皮質」「内側前頭皮質」と「扁桃体」の結びつきができてくると、人間は自分が置かれた社会的状況と「快・不快」を組み合わせてバランスを取りながら判断できるようになる。サイコパスは、この結びつきが弱い。
「眼底前頭皮質」は相手に対する「共感」でブレーキをかける。「内側前頭皮質」は「良心」でブレーキをかける。
いずれかの理由、あるいは複数の理由の組み合わせで、サイコパスは恐怖や罰から社会的な文脈を学習して痛みや罪、恥の意識を覚えることができない。
サイコパスは「勝ちパターン」というルールは学習できても、「倫理・道徳」というルールは学習できない。
詳細は省くが、海馬や後帯状回の働きが弱いことも指摘されている。
とはいえ、現時点でいえるのは
- 脳の機能について、遺伝の影響は大きい
- 生育環境が引き金となって反社会性が高まる可能性がある
といったところ。
遺伝の影響が大きいからといって、必ずしもサイコパスになるわけでも、犯罪を犯すわけでもない。脳画像を解析したところで、同様である。
そもそも、遺伝の影響だけで排除するというのであれば、ナチスと同じ差別や迫害である。脳画像の解析でも同様のことが言える。
また、遺伝の影響がなくても、脳機能に障害がなくても、幼少期にいじめや虐待を受けていれば、言動に大きな影響を及ぼすことは、数多くの研究が明らかにしている。脳科学の研究でも、反社会的な素質を持っていたとしても、環境次第で抑えることが可能であることが示唆されている。
この場合、対処しなければならないような養育環境であり、遺伝子でも脳機能でもない。
いずれにしても、「反社会性に相関する遺伝子をもっていたとしても、100%そうなるわけではない」ことは周知していかなければならない。
研究が進めば、遺伝情報が当たり前のように取り扱われる時代が来ると思われる。
今のうちに、社会制度、法整備、遺伝情報にリテラシーの向上をはからなければならない。
人間は、人種、性別、宗教、国籍、職業、年齢などなどを理由にして、数多くの差別や迫害を生み出してきた。ここに遺伝子や脳機能を加えてはならない。
サイコパスと共存する
さまざまな研究結果により、幅はあるものの、100人に1人程度はサイコパスが存在する。好むと好まざるとにかかわらず、サイコパスとは共存してゆく道を模索するのが人類にとって最善の選択であると、私は考えます。
長い長い人類の歴史で、サイコパスが社会から完全に排除されず、マイノリティだけれども一定数生き残ってきたのは、なぜなのか。
そこには、サイコパスの存在理由があるはずだ。
人類が生息範囲を広げてきたのは、危険を顧みない人がいたから。つまり、恐怖や不安を知らないサイコパスが必要だったから。
前人未到の地への探検、危険物の処理、スパイ、新しい食料の確保、原因不明の病気の究明、大掛かりな手術、敵国との外交交渉などなど、サイコパスが適任である仕事は多い。
ケヴィン・ダットンの調査では、サイコパスが多い職業は、企業の最高経営者、弁護士、マスコミ報道関係、セールス、外科医、ジャーナリスト、警官、聖職者、シェフ、公務員を上げている。
逆に少ないのは、介護士、看護師、療法士、技術者職人、美容師スタイリスト、慈善活動家ボランティア、教師、アーティスト、内科医、会計士、を挙げている。
これらの職業に就いているからといって、サイコパスであるとかそうではないとかいう「職業差別」ではないのは、注意しておきたい。
あくまでも「適正」の問題であって、経験と訓練が人を育てることは、言うまでもないことだ。
アメリカの認知心理学者スティーブン・ピンカーは『暴力の人類史』のなかで、人類は現在よりも過去の方がはるかに暴力的であった、と。戦争も殺人も、時代を遡るほど身近であったからだが。
これには、ジャレド・ダイアモンドさんの『昨日までの世界』がいいヒントを与えてくれている。近代的社会と伝統的社会を比較考察して、数多くの教訓が得られている。
伝統的社会で戦争も殺人も多かったのは事実である。しかし、だからといって、彼らが暴力的であったわけではない。単に、現代社会に暮らす我々が幸運だっただけである。
とはいえ、伝統的社会は近代社会よりはるかに戦争や殺人も多かった。となると、人類の長い歴史のなかでは、サイコパスが目立たなかっただけなのかもしれない。
サイコパスは、自己犠牲を美徳としている人に目をつける。
他人に批判されても痛みを感じないという強みがある。近年では炎上ブロガーなどがそれにあたる。
自分の行動がバレて問題化すると、言葉巧みに被害者を装ったり、責任を転嫁したり相互不信を煽り、人間関係自体を破壊する。虚勢を張るのではなく、弱者を装うこともある。
サイコパスは治療プログラムに参加しても、「他人に対する共感を、いかに演じれば効果的に他人を騙せるか?」ということを学んでしまう。「サイコパスには何をやっても効果がない」という研究者もいる。
ヘアたちは「サイコパスの治療目的は暴力行為を減らすことであって、パーソナリティや表面上の行動を変えることではない」と主張します。サイコパスの根本的な倫理感や、道徳概念を変えようとしたところで無駄であり、暴力や破壊行為に直接結びつくリスク要因に照準を定めた介入(治療)をする必要がある、と主張する。
入念に計画されたうえで実施される矯正プログラムは、再犯リスクを減少させることが、示されている。
人間は、集団をつくらなければ生存確率が極端に下がる。そして、集団内では社会の成員全体が少しずつコスト(犠牲)を払うことで、なんらかのリターンを得る。そうやって、集団の構成員全体が「トク」をする。
問題になるのは、コストを払わないのに利益だけ得る「フリーライダー」の存在である。
通常、フリーライダーは、同じグループのなかからバッシングを受ける。これがサンクション(制裁行動)である。サンクションが行われなければ、集団の協力行動は壊れてしまうからだ。
「フリーライダーには制裁を加える」という行動をとるように、脳は進化した。そして、集団の秩序を乱しかねない存在に、サンクションを加える行為に「快楽」を感じるように、脳は進化してきた。
しかし、そんな強固なメカニズムがあっても、「フリーライダー」はその網の目をかいくぐって生き残ってきた。
そうやって進化してきた人類だけれども、平時には「フリーライダー」が有害だが、緊急時にはサイコパスの方が生き残りやすかったのも事実である。飢餓の際に生き残るにはサイコパスの方が適している。厳格に一夫一婦制を守っている個体よりも、破ってしまったほうがサイコパスの遺伝子は残る。
とはいえ、人類は集団を作り、それを維持できなければ生存することはできない。それゆえに倫理道徳を「美しい」と判断する。倫理道徳を重視してきた個体の方が生き延びやすく、結果、遺伝子も残すことができたのかもしれない。
逆説的に考えれば、「サイコパス」や「フリーライダー」が多少いてみたところで揺るがないほどの盤石な社会基盤を、人類は持ちえた、とも言える。だからこそ、サイコパスも生き残ってこられた。そして、ときにはサイコパスのおかげで大きな発展に寄与した、という考え方もできる。
「反省できない人もいる」「罰を怖れない人がいる」という事実を、人はなかなか認めることができない。しかし、これは事実だ。
「遺伝的に危険だ」と機械的に排除するような風潮が広まれば、それ自体が危険な社会である。犯罪や反社会的言動は許されるものではないからだが、差別や迫害も許されるものではない。人間を評価するのは、その人の言動である。
とはいっても、罰を怖れない人間からすれば、反社会的行為を抑制するために作られた社会制度やルールは、ほとんど無意味である。
別の手段によってサイコパスの犯罪を抑制・予防する方法へ、発想を転換しなければならない。