【読書】『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後[上]』11

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何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自分の考えに忠実に生きることである。だからほかの人々も、そうあって当然と思っている。

人間は、自分が見たいと欲する現実しか見ない。

伝家の宝刀を抜いた後

元老院派

 首都ローマに軍隊はない。ゆえに、ルビコンを越えたカエサルに対する戦力はない。ポンペイウスはローマを捨て、二個軍団の駐屯するカプアに向かう。
 カエサルの南進を受けて、ブリンディシからイタリアを脱出してギリシアに向かう。
 ポンペイウスの「クリエンテス」網は、小アジア、シリア、ギリシア、パレスティーナ、エジプト、スペイン、マルセーユをはじめとする海港都市、北アフリカ。
 本国イタリアを明け渡したとしても、「クリエンテス」網を結集すればカエサルを撃つことは可能だった。
 兵力差を考えれば、大きく間違っていたとはいいがたい。しかし、ルビコンを越えたカエサルも約4500の兵力しかもっていなかったのだ。そこで撃つことも可能だったのだけれども。

 ポンペイウスがローマを去ると、元老院議員は慌ててローマから逃げ出す。私財を満載して逃げるが、公的書類を持ち出した議員はいなかった。
 カエサルに対しても、ルビコン以北への退去と軍隊の解散、それがなされた後に凱旋式挙行と執政官吏候補の許可するというものだった。
 慌てて逃げだしたわりには、強気だった理由は、「元老院最終勧告」の威力を疑っていなかったからだ。
 しかし、だからといっても、それでカエサルは止まらない。
 ポンペイウスがイタリアを脱出してギリシアに向かえば、元老院議員だけでカエサルは迎撃できない。結局、彼らもポンペイウスを追い、イタリアを脱出してギリシアに向かう。

カエサル

 一方の「ルビコン」を越えたカエサルに迷いはない。
 リミニ、ペーザロ、ファノ、アンコーナ、アレッツォと立て続けにカエサルの前に門を開く。ガリア戦役で人気を博したカエサルを歓迎しても、抵抗する都市はない。
 無血開城を続けて首都ローマに達する。
 内戦の長期化を避けようと思えばイタリア半島内で解決するしかなく、よってポンペイウスに海を越えられたくはなかったのだが、カエサルの「クリエンテス」網に船はない。
 ポンペイウスのブリンディシ出港・ギリシア入りは止められなかった。

ポンペイウス死す

スペイン戦

 スペインに向かう前に南仏を通らなければならないのだが、マルセーユでつまずく。マルセーユはカエサルの前に門を開かなかった。
 海賊討伐でポンペイウスの「クリエンテス」になっていたことが理由の一つ。もう一つは、中北部ガリアの通商権をカエサルに侵害されたと考えたからだ。
 二重の意味で立ち向かってくるマルセーユを落城させる時間はなかった。包囲したままでスペインに向かう。

 セグレ川でポンペイウス側のアフラニウスとペトレイウスと対峙したカエサルは、運河採掘で敵の補給を断つ。
 動揺した原住民の参加兵が脱走し、兵力が激減する。アフラニウスとペトレイウスは、南スペインに撤退を決める。
 アフラニウスとペトレイウスの撤退行を、カエサルは追うだけだった。敵の補給路は断たれていた。カエサルは彼らの降伏を待った。
 会戦に持ち込んだ方がよほど楽に勝てたであろう。兵士たちも絶好の勝機にはやる。
 しかし、カエサルは会戦を拒否した。
 ガリア、ゲルマン、ブリタニアといった他国の制覇ではなく、「内乱」なのである。戦い自体はやむを得ないが、それで生じる憎悪の感情を生み出すようなマネは、できる限り避けたかった。
 アフラニウスとペトレイウスは降伏する。去就の自由を与えられた彼らは、ポンペイウスのいるギリシアに向かう。南スペインにいたヴァッロも降伏を選び、ギリシアに向かう。

ドゥラキウム攻囲戦

 マルセーユもうまくいかなかったが、北アフリカに送り出したクリオも失敗、戦死する。
 アドリア海の制海権を獲得するのも失敗した。
 ドゥラキウムの攻囲戦も失敗に終わる。
 6万のポンペイウス軍に対して、1万5千と500の騎兵で包囲するには無理がある。

ファルサルスの会戦

 ポンペイウスと行動を共にした元老院議員に軍事的能力はない。しかし、地位にふさわしい待遇と行使は要求した。つまり、作戦会議に「クチ」だけは出す。
 しかも、ファルサルスの会戦前だというのに、作戦会議はそっちのけで、戦闘後の、公職の配分、カエサル派の財産没収と配分まで口にしていた。

 ポンペイウスは元老院議員を放っておいた。
 ポンペイウスは、カエサルにファルサルスに誘い出された、と分かっていたのだろう。しかし、それでも勝てる、と思っていた。
 騎兵のみをとっても、ポンペイウス七千騎に対して、カエサルは一千騎。歩兵は四万七千に対して二万二千。兵力差は明らかだった。
 アレクサンダー大王、ハンニバルと少数の兵で大軍を撃破した例はある。しかし、彼らは騎兵を活用して包囲殲滅する戦略を知らない敵と戦っているのである。
 ファルサルスは、ポンペイウスもカエサルも、騎兵を活用した戦略を知っている者同士の戦いとなる。

 ポンペイウス軍の左翼に配置された騎兵七千騎を、カエサルは一千騎で誘い出し、ベテラン兵で囲い込んだ。こうしてポンペイウス側の主戦力、騎兵七千騎の非戦力化に成功した。
 返す刀でベテラン兵が敵左翼に襲い掛かる。
 カエサルは、ローマ軍の伝統に忠実に、ハスターリ、プリンチベス、トリアーリの三列横隊をとっていた。会戦の第一段階ではハスターリとプリンチベスの二列の兵しか投入していなかった。
 敵左翼、味方右翼の攻撃が始まったとき、それまで温存していた三列目のトリアーリを出撃させて挟撃した。
 ポンペイウス軍は総崩れとなり、ポンペイウスは陣営地を捨て、ラリサに逃げる。

エジプト

 ファルサルスの会戦で負けたポンペイウス側の同盟国軍を、カエサルは追撃しなかった。
 内乱で生じる憎悪を避けたかったからでもあるが、逃げ帰った同盟国軍が会戦の結果を広めてくれるのを狙ったからでもある。
 ローマ独特の「パトローネス」「クリエンテス」関係は、オリエントでは通用しない。彼らは「トク」をする側につく、勝者になびくだけである。
 彼らは、ポンペイウスの前に城門を閉ざす。

 エジプトの先王プトレマイオス十二世はポンペイウスによって復位した「クリエンテス」だった。プトレマイオス十二世は死に、残した遺言は、少年王とクレオパトラの共同統治だった。
 ポンペイウスがエジプトに逃げてきたタイミングが悪かった。クレオパトラと少年王が対立し、追放されたクレオパトラが王位奪還のために兵士を集めていた。
 少年王の立場からすれば、ファルサルスで敗れ、各国から門前払いを食らって逃げてきたポンペイウスは迷惑な存在だった。
 少年王と宮廷人たちはポンペイウスを殺害して、首をカエサルに送る。

 少年王とその側近たちは、カエサルに大きな貸しを作ったつもりでいた。
 しかし、ポンペイウスがプトレマイオス十二世を復位させ、その法案化をしたのはカエサルなのである。ポンペイウス亡き後、エジプトの政情安定はカエサルがやらねばならない。
 それに、ポンペイウスはローマの「前執政官」という公人なのだ。それにエジプト王室という「クリエンテス」が「パトローネス」であるポンペイウスを殺したのである。放置はできない。

 口実は敵が作ってくれる。少年王と側近たちは全軍を率いてカエサル殺害を計る。
 援軍と合流したカエサルは、少年王軍とナイルのデルタ地帯で激突する。一か月もしないで、カエサルが勝利する。
 少年王は戦死、ポンペイウス殺害の首謀者たちも全員死亡していた。
 カエサルはクレオパトラとプトレマイオス十四世の共同統治を確立してエジプトを後にする。

スッラではない

 「内乱記」のカエサルは、極力、会戦を避けている。
 また、降伏した者も、敗北した者も、将に去就の自由を与え、兵にも帰宅を許している。
 ポンペイウスとの戦いがいつまで続くかわからない以上、執政官に就任しておきたかったのだが、次期執政官選出の市民集会の召集権は、現職執政官にしかない。そして、現職執政官はポンペイウスとともにギリシアに逃げている。
 それを理由にローマに残った元老院議員は抵抗していたのだが、時間がない。やむなく、独裁官に就任し、独裁官の権利で市民集会を招集、前48年の執政官に立候補する。
「自分はスッラではない」
と公言するカエサルは、反対派の殺戮など行わず、「処罰者名簿」など絶対に作成しなかった。
 また、スッラによって国法化されていた、反スッラ派の公職永久追放は解除、国外追放者の帰国も許可している。
 元老院派にもポンペイウス派にも、略奪、暴力を厳禁した。

何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自分の考えに忠実に生きることである。だからほかの人々も、そうあって当然と思っている。