【読書】『ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち[一]』17

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歴代の皇帝の悪口を言うだけで済んでいた時代は、ローマ人にとっては幸せな時代であったのだ、ということだった。

鋳造技術でも金銀の含有率でも、四世紀の貨幣とは比較しようもないくらいの「良貨」が流通していたのが、これら悪名高き男たちが帝位についていた時期なのであった。

ライン河・ドナウ河防衛線

パンノニア・ゲルマニア軍団蜂起

 パンノニアとゲルマニアに駐屯する軍団が反乱を起こした。
 ゲルマニアには、養子のゲルマニクスが司令官として着任している。パンノニアには実子ドゥルーススを派遣した。
 パンノニア軍団が蜂起した理由は、給料の値上げと16年での満期除隊、を求めたからだ。ティベリウスは給料値上げには応じなかった。また満期除隊も16年に短縮することには応じなかったが、20年の満期除隊は厳守することにした。
 辺境での軍務経験のあるティベリウスは、彼らの不満を理解していた。

ゲルマニア撤退

 ティベリウスはゲルマニアからの撤退を決める。
 ライン東岸の友好的な部族は、強制的にライン西岸に移住させ、東岸に無人地帯をつくる。その無人地帯では、放牧は許されたが、畑作は禁止された。ライン川東岸のいくつかのゲルマンの部族と友好関係を結ぶ。

 エルベ河は捨てたが、ドナウ河は絶対に捨てなかった。ドナウ川の北岸のいくつかの部族とも友好関係を結ぶ。
 こうして、ライン河からドナウ川に連なるローマ帝国北方の防衛線を確立する。

ゲルマニクス急死

 父は、アウグストゥスの妻リヴィアの連れ子でティベリウスの弟ドゥルースス。母は、アスグストゥスの姉の娘。高貴な生まれのゲルマニクスをゲルマニアから撤退させるには、相当の大義名分が必要になる。
 ローマの東方問題といえばパルティア問題なのだが、パルティアは専制君主国である。交渉相手には、それ相応の身分を求める。ゲルマニクスはうってつけの人材であり、大義名分も十分に立つ。

 多くの研究者は、ティベリウスがゲルマニクスのお目付け役にシリア総督ピソを派遣した、と推測する。しかし、この人事は失敗だった。与えられた任務を過大に受け取ったピソは、口出し役をやってしまったからだ。
 紀元19年10月10日、ゲルマニクスは急死する。現代では原因はマラリアが定説となっている。
 とはいっても、ローマ市民は、ピソがゲルマニクスを毒殺したと思っていた。ピソを裁判の場に引き出すことを要求した。
 ピソの弁護に立ってくれた人々も、毒殺の罪は証拠不十分で免れたとしても、命令不服従の罪を逃れることは難しい、と告げる。ピソは自死を決心する。
 世論に流された判決は、ピソの名の公式記録からの抹消。長男グネウスはピソという姓を変えること。父と同行していた次男マルクスは、500万セステルティウスの遺産贈与は許されたが、元老院議員の資格剥奪と、10年のローマ追放。
 しかし、ティベリウスは世論には流されなかった。皇帝権を行使し、ピソの公式記録からの抹消を取消し、次男マルクスの元老院議員資格剥奪も10年のローマ追放も撤回する。遺産贈与も長男グネウスと同様に認めた。
 世論にも感情にも流されず、事実を事実として認定する模範的な判決な判決だった。
 しかし、それとゲルマニクスの妻、アグリッピーナの感情は別だった。アグリッピーナは、ティベリウスがピソを使ってゲルマニクスを毒殺させたのだ、と信じて疑わず、ティベリウスを憎むようになる。

盤石な帝国運営

 ゲルマニア撤退も、ライン防衛線確保も、ドナウ防衛線確保も、本国イタリアから動かずに実行している。
 前線での軍事経験があったからでもあるが、責任分担の徹底と、適材適所を心掛け、能力主義で人材を抜擢し、活用していたから、できたことなのだ。

 東部ガリアで反乱が起きる。ローマ本国では年利12%に抑えられていた利率が、属州では無制限になってしまっていたらしい。借金も属州税を払わさせられるからで、怒りの矛先がローマ政府に向けられる。
 南仏は別として、同じガリアでも西部ガリアで起きなかったのは、東部ガリアの祭司ドゥルイデスが絡んでいたようである。
 アウグストゥスはドゥルイデス教を禁じたのではない。ローマ市民がドゥルイデス教に帰依するのを禁じた。ガリアの指導者はローマ市民権を持っている。よって、ガリアの指導者はドゥイルデス教から離れた。
 ガリアの指導者に対する影響力を失ったドゥルイデスの祭司たちは、若者たちを巻き込んだ。
 とはいっても、東部ガリアの反乱軍に、補助部隊のガリア兵は、迷うことなく襲い掛かる。西部ガリアも北部ガリアも同調しなかった。反乱は半年たたずに鎮圧される。
 ドゥルイデス教の司祭は追放され、ブリタニアに逃亡した。

 ユダヤ教も社会不安の種をまけば追放されたが、恒久化されたわけではない。棄教すればローマの公職が解放されていたし、ティベリウスの時代にはエジプト長官になったものまでいる。
 エジプトのイシス教が弾圧されたのは、寄進という名目で信徒に払わせる金が、常識を超えていたからである。
 宗教ばかりでなく、占星術師も高額すぎて非難される。占いの報酬を受け取らないと誓言して、追放を免れた。
 いかなる宗教を信じるのも自由だが、社会不安の要素につながるのなら、排除された。

 ローマでは、街道、水道、橋、会堂、港湾、浴場等のインフラストラクチャーを建設するのが、エリートの責務であるという伝統があり、それは人気取り政策にもつながっていた。しかし、ティベリウスは必要に迫られない限り行わなかった。すでに建造済のインフラのメンテナンスだけでも莫大な費用が掛かっていた。
 アウグストゥスは宗教祭儀と併せて行われる競技会のスポンサーになっていたが、ティベリウスはやめてしまった。とくに、庶民が熱狂する剣闘士試合には冷淡だった。剣闘士試合は庶民には人気があったが、知識階級は嫌う人が多かった。
 とはいっても、社会福祉を忘れたわけではない。小麦の無料配給に手をつけなかった。
 ティベリウスのは、増税無しでの国家財政の健全化をはかった。
 増税すれば属州民の反乱につながり、内と外に敵をもてば軍事力の増強は避けられなくなる。軍事力を増強すれば、さらなる増税が待っている。
 結局、ティベリウスに残されたのは「緊縮財政」しかなかったのだ。

 外敵を怖れる必要はないし、治安は維持されている。新税は課されず、不当な過剰徴収には厳罰が課された。重要な裁判にはティベリウスが出席している。
 それに、平和を満喫すれば経済は活性化する。経済成長は、増税無しの税収増につながる。
 とはいえ、ティベリウスには「ケチ」という評価が定着してしまう。

カプア転居

 ティベリウスは、アウグストゥスの単なる親族ではない。生前のアウグストゥスから種々の権限を分与されていた。そして、力量と実績は、誰もが認めるものだった。
 とはいえ、アウグストゥスの遺言状は、実の孫二人に死なれてしまって仕方なく、妻の連れ子のティベリウスを後継者に指名し、その後はアウグストゥスの姉の娘の息子であるゲルマニクス、といっているようなものだった。
 アウグストゥスが血の継続に執着したのは、せめてもの正当性の確保だった。自身が内戦を経験したため、政局を安定させておきたかったからだ。
 しかし、そのことを理解できるというのと、はじめから「中継ぎ」と言われてしまったティベリウスの心のうちは別である。

 ティベリウスはローマ帝国最高責任者の立場が、不明瞭であることも理解していた。外観は(元老院主導の)共和政だが、内実は君主政というアウグストゥスの深謀遠慮を、ハッキリと理解していた。終身執政官という名称だと、カエサルのように暗殺されてしまうからだ。
 この不明瞭さの被害を、最初にかぶってしまったのがティベリウスになる。

 アフリカ属州で砂漠の民が反乱を起こす。アフリカ属州総督に軍事権を与え、その人選を元老院に求めた。しかし、軍隊生活を嫌がる元老院は、人選をティベリウスに戻す。それでもティベリウスは元老院議員の適任者を推薦した。
 ティベリウスは、元老院主導のローマ共和政を代表する名門貴族、クラウディウス一門家系に生まれていた。ローマ市民中の「第一人者」を文字通り解釈する方を選び、元老院の協力を得て実行できると思っていたのではないか。
 ティベリウスは元老院に期待していた。期待しすぎていたのだ。
 しかし、元老院はティベリウスの期待に裏切り続けた。

 紀元27年、ティベリウスは首都を離れ、ナポリ湾のカプア島に転居する。
 以降、死ぬまでカプリ島で政務をとり続ける。

彼は、紀元二七年から死ぬまでの十年間、このカプリ島からローマ帝国を統治し続けたのである。人間嫌いにはなった。だが、人間を統治する責務は放置しなかったのだ。しかも、カエサルが青写真を引きアウグストゥスが構築したローマ帝国は、このティベリウスの統治を経て盤石になっていくのである。