【読書】『知性とは何か』【「反知性主義」を克服せよ】
「反知性主義」とは?
佐藤優さんは「反知性主義」を次のように定義する。
実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度
新しい知識や見識、論理性、他者との関係性などを等身大に見つめる努力をしながら世界を理解していくという作業を拒み、自分に都合が良い物語の殻に籠るところに反知性主義者の特徴がある。合理的、客観的、実証的な討論を反知性主義者は拒否する。
私は、
「脳内ストーリーで生きている人」
と書き換えてみたのだが、どうであろう?
もっとも、反知性主義者が、自分の物語に閉じ籠っているだけならば、他者に危害は加えないが、政治エリートに反知性主義者がいると、国内政治、国際政治の両面で大変な悪影響を与え、日本の国益を毀損することになる。
政治エリートにいても迷惑だが、会社エリートにいても、隣にいても、迷惑だろう。
「反知性主義」を封殺せよ
私は、反知性主義者が知性を憎んでいるのではないと考える。反知性主義者に対抗することは、実に難しい。知的な言葉は、反知性主義者には通じない。なぜなら、反知性主義者が知性自体を憎んでいるからである。
自分にとって都合のいい物語を愛し、脳内ストーリーが壊れることを憎んでいるのだと考える。
とはいっても、知的な言葉が通じないというのは同意見である。
重複するところがあるが、さらに引用する。
先に述べたように反知性主義者は、知性を憎んでおり、筋道が通った、論理的かつ実証的な言説を受け止める気構えがないからである。それだから、反知性主義者を啓蒙によって、転向させるという戦略は、ほとんど無意味だ。知性の力によって、反知性主義者を包囲していくというのが、筆者(注:佐藤優さん)の考える現実的な方策である。後々冷静になって考えると失敗したと思うことがあるのだが、反知性主義者とは議論が成立しない。彼らにとっては「自分にとって都合のいい物語」がすべてなのだ。
あるいは「自分にとって都合のいい物語」を補強する論理と事実だけ認めるが、否定する論理や事実は認めようとしない。
ゆえに、論理的な言説や、実証的な言説は、彼らには通用しないのだ。
したがって、「知性の力によって反知性主義者を包囲していく」しかない。
考え方を変えれば「実害がなければよい」のである。
彼らにとって都合のいい物語が、彼らの頭の中だけ存在するのならば、周囲の人間に被害はない。自分一人の世界で生きていてくれれば、実害があるのは本人だけである。
「反知性主義」を克服せよ
筆者(注:佐藤優さん)は、反知性主義の脱構築するためには、近過去に目を向け、そこで強靭な知力によって反知性主義と戦った人々の経験を追体験することが、もっとも効果があると考えている。
論理的にも実証的にも議論が通用しない人たちとどう戦うか、を学習するというのも何だか妙な話だが、そうでもしないとどこへ流されるか知れたものではない。
賢人から学ぶのが最も良い。
長期的な信頼関係を構築する
「反知性主義を克服するために中世に戻る」というのは頭の体操としては面白い。
目には見えないが、確実に存在する人間の心の働きを、客観性、実証性、合理性よりも重視し、お互いの心を理解できる共同体が形成されるならば、そこでは他者の心を無視して自分が欲するように世界を理解する態度が取れなくなるので、反知性主義が付け入る隙もなくなる。
「知性的世界」に対するアプローチから戦略を考えるだけではなく、「心理的世界」に対するアプローチする戦略を利用する方法である。
行動経済学には「囚人のジレンマ」というゲームがある。
このゲームを1回限りのゲームにすると、ずるい人間が得をする。しかし、10回繰り返すと、協力する人間が得をする。
このことからわかる法則は、長期的な信頼関係を築けば、ずるい人間を排除できるということである。
これを「反知性主義者」に対しても流用する。できるだけ長期的な関係になれば「反知性主義者」は明々白々になる。上手くいけば排除できるし、排除できなくても距離をとる、実害が出ないように防御することも可能である。
近代以前の人間関係は広くも薄くもない。時代を遡れば遡るほど、地縁血縁に連なる結びつきで共同体が形成される。そのような社会では他者の心を無視して自分の好むように世界を理解する態度をとってしまえば、共同体から排除される。それでは生きてはいけない。
とはいえ、近代社会は「全く知らない赤の他人」に出会い、人間関係を構築しなければならない社会である。
近代に背を向けるのではなく、近代に内在する力によって、近代の病理である反知性主義を克服する方策について考えなくてはならない。
相手の心理を読んでみる
人間の精神が、言葉 → 心 → 力 → 行為という形で、歴史的に発展していく、と考えると間違える。
現代においても「行為」が重要だ。その行為の中には、言葉、心、力という要素が含まれている。
それぞれの人間の集団を動かしている動機がなんてあるかを的確につかんでおけば、対処も方針も立てやすくなる。
反知性主義を脱構築するためにも、人類がこれまで培ってきた言葉、心、力、行為というすべての要素を最大限に活用し、反知性主義者が影響をおよぼす範囲を極小化するような仕組みや制度、知恵や技術が必要になる。
また、反知性主義者の暴言、暴力、威圧に対する強靭な心の力を培う必要がある。
各々が置かれた場所で、言葉、心、力のすべてを使い、反知性主義者を封じ込めていくという行為(実践)が求められる。
自分の頭で考える
ここまでは反知性主義者「対策」を講じてみたが、自分が反知性主義者になってしまっては意味がない。
反知性主義の罠にとらわれないようにするための処方箋は難しくない。知性を体得し、正しい事柄に対しては「然り」、間違えた事柄に対しては「否」という判断をきちんとすることだ。
第一は、自らが置かれた社会的状況を、できる限り客観的に捉え、それを言語化することだ。自分の考えていることをノート、PC、スマートフォンなどに記録する習慣を身につけよう。
第二は、他人の気持ちになって考える訓練をすることである。
第三は、LINE(ライン)などのSNSを用いた「話し言葉」的な思考ではなく、頭の中で自分で考えた事柄を吟味してから発信する「書き言葉」的思考を身につけることだ。重要な事柄については、SNSを用いずに、PCで文を綴り、プリントアウトして、推敲した後で送付する習慣を身につけると「書き言葉」的思考力が向上する。
これは全く難しいことではない。じつは「紙」と「鉛筆」で充分である。
何度かこの作業を繰り返していると、実証的にも客観的にも論理的にも考えることができるようになる。