【読書】『大名の家計簿』【平和な時代は財政と戦う】
大きな反省なのですが、日本史をほとんど勉強していなかったのです。
ご先祖様がどんな生活をしていたのかを知らないでは、勉強不足も甚だしい。
ということで、江戸時代のお殿様。
日本史は、戦国時代や時代劇だけでできているわけではない。
江戸時代のお殿様も苦労が絶えなかったのです。
- 現代政治と変わらない
→ 主要産業からの転換を図ること - イノベーションを起こすのも大変
→ 人間関係の基本を忘れるべからず - 情報公開とケインズ政策
→ その場しのぎの「嘘」ではなく、信頼関係が大切
→ 活力のある社会を作り出すこと
現代財政と変わらない
「緑の革命」が起きて農業収穫量が飛躍的に増大したのは1960年代以降。江戸時代に農業生産物を増やそうとしても限度がある。しかし、現実の社会は、かつての村単位の「自給自足」から商業の発展にともなって「貨幣経済」に移行したのだが、米はそれに連動しない上、肝心の税収(年貢米)は元禄以降ほとんど伸びなかったのである。
しかも、農業生産物というのは厄介なもので、足りなければ飢えるし、余れば値崩れして儲からない。
手っ取り早いのは「倹約令」か減給、増税、借金だが、構造が変わらない限り根本的な解決策にはならず、同じことを繰り返して借金が膨らむことになる。また、行政改革で体質を改善することも必要だが、無駄を省くことは痛みを伴うのでなかなか行われなかった。まるで現在の政治のことを言っているようである。本当に現代政治のことを言っているかのようです。
「減給」とは「借上」の形をとっているが、だからといって返されることはほとんどない。武士であろうと公務員であろうと、あまりに減給が続けば、やる気が奪われる。それでは藩政改革などおぼつかない。
「御用金」という名の「借金」をするが、これも返されることはほとんどない。
返されることがほとんどない借金とは、別の言葉を使ったほうが適切なのでは?
後述するが、借金の250年の分割払いなどと要求されるのだが、2023年に返済終了として、1773年に返済開始。1867年の大政奉還から約100年前の借金が、現在でようやく払い終えるのか。
返す気がない借金だから「御用金」という表現を使ったのかと、得心。
「御用金」と呼ばれる返されることのない借金を収めると、「お褒めの言葉」をいただき、帯刀を許される―――――
―――――というが、お殿様から目をつけられた金持ちは、心臓マヒを起こしたのではないか?
金持ちになりたくない時代だったんですねぇ。。。。。
だからといって、おいそれと増税というわけにもいかない。
だから、税収を増やすために年貢の率を高くしたが、一時的にはよくなっても、農民はやる気をなくすのでかえって減収になり、一揆を起こしたり、他領に逃げていく。こうなれば懲罰的な国替えか、悪ければ取り潰しになるので、中には”バカ殿様”もいたが、まともな殿様は学習し、増税をしなくなったばかりでなく、逃げた農民を好条件で呼び戻し、人口を増やすために子供手当を支給したり、安心して暮らせるように「義倉制度」などを作ったり、社会保障にも気を配った。つまり、民意に背けば財政どころか藩の運営そのものに失敗するのである。現代社会のように「選挙で負ける」ではないのである。
「ストライキ」ではなく「一揆」で、「政権交代」ではなく「お家断絶」なのです。
現代の政治家以上に「民意」に背くわけにはいかない。民主主義以上に民意を重視しなければならなかったのです。
財政改革に成功したのは、農業改革で成功した庄内藩のような例外を除いて、脱米政策をとった藩だった。つまり、商人と手を組むか、藩自体が商人となって金を稼ぎ、貨幣経済とリンクすることである。山下昌也さんは「脱米がポイント」といっています。
主要産業からの転換といわれると、自動車産業からIT事業に転換したアメリカを想像してしまうのですが、江戸時代はそんなに簡単にはいかないのです。
イノベーションを起こすのも大変
八代将軍吉宗は、琉球の甘蔗苗を取り寄せ、日本語訳の唐書『蔗作製糖法』を取り寄せて吹上御苑で試作し、諸大名に砂糖の製造を奨励したが、うまくいかない。
奄美大島で黒砂糖の精糖に成功し、元禄期に薩摩藩が精糖を始めたが、すべて秘伝だったため製造法は見当もつかない。
この時代は、一子相伝という誓書を取って行われた「秘法」とされていたため、広く普及するには至らなかったのです。
インターネットどころか、百科事典もない。研究成果を論文として発表してくれる大学もなかったのです。
高松藩は水害、大火どころか「蝗害」まで発生し、藩財政が悪化しました。
五代・頼恭はこれまでの検地や新田開発以外の財源を得るために、塩田を開いて塩の増産を図ったり、高価で貴重品だった砂糖栽培の研究を明示します。
とはいえ、砂糖の製造法が分からないことは、上述しました。
ひょんなところから解決する。向山周慶は病で苦しんでいる四国遍路を自宅に泊めて治療しました。
遍路は関良助という薩摩の人で、いったん薩摩に帰った後、数年して甘蔗の茎を弁当箱に詰めて周慶の元に訪れます。薩摩の国禁を犯すもものでしたが、良助は周慶の元に生涯とどまって、精糖法の完成を目指します。
別説では、周慶が京都へ遊学していた時、薩摩藩の医学生と仲良くなり、京都の大火にあって困っている彼らを、物資を送って助けたことで精糖法を伝授されたともいわれている。
インターネットが常時接続ではなかった時代、どうやって情報を仕入れるかは、人間関係がカギであったように思います。
手持ちの名刺の枚数を増やしても何も意味はないのだけれど、もっと単純に「仲良くする」だけでよかったのですが。
「仲良くする」はインターネットが常時接続する現在になっても、人間関係の基本。それに、どこから何のビジネスチャンスが転がり込んでくるか分かりません。
イノベーションも、インターネットも便利なものですが、「仲良くする」という人間関係の基本を忘れてはならないのです。
「仲良くする」がビジネスチャンスとイノベーションをもたらすのです。
情報公開とケインズ政策
備中松山藩は、学者・山田方谷を仕切り役に採用します。
方谷の方針は
藩の帳簿を債権者である両替商にすべて公開し、そのうえで話し合いをするという大胆なプランでした。
陽明学の「致良知」とは、自らの心に問うて自らの心が納得できるものでなければならず、嘘をつくと本音と建前の分離が始まって外の世界と内なる心の世界の不一致が生じるのだ。つまり、言葉と心は一体であることが、本当の人間のあり方である。だから、適当に繕って一時鎬ができても、それは「利」であって「義」ではないので、方谷にとっては「すべてを明らかにしたうえで話し合いをするほか解決の道はない」のである。私自身も耳が痛い話なのですが、ここに「儒学のバランス感覚」が見えます。
儒学は、決して権力者に絶対服従という学問ではありません。
「徳」を失った君主は討伐してしまえ、というのは過激な主張ですが、「諫言」して正しい道に導くのが臣下の役目だ、という穏健な主張もあります。
それはそれとしても、方谷の主張は信頼関係を築くための基本的なものです。
幕末になると、困窮した藩が蔵元を解任したり、証文を破棄するなどで一方的に踏み倒したり、二五〇年分割を強要するなど、大名貸しのリスクは大きくなっていた。それに比べて方谷は「借金は必ず返済する。踏み倒すつもりは毛頭ござらん」といっているため、最初は怒りすら見せていた債権者たちも、算盤で説得されては納得せざるを得なかった。踏み倒すために借金をする大名が多い中で、方谷は「必ず返済する」と約束したのです。それも算盤を使いながら。
方谷は、厳しい倹約令を強いると同時に、領民の命の保証を実施します。
備中松山藩では、百姓一揆はピタリと止み、飢饉による餓死者は一人も出なくなりました。
「政で最も大事なものは、民・百姓であり、それを慈しみ、育てることが大きな力となる」という哲学によるものだった。それは活力のある社会を作ることであり、厳しい倹約と緊縮財政だけでは、経済、社会が委縮して実現しない。方谷がケインズ政策や社会保障を知っているわけではないのだが、ケインズ政策と社会保障を実行しています。
無駄な財政支出は削減したほうがいいのですが、必要な財政支出をしなければ、経済も社会も停滞します。本当に現代政治のようですね。
ちなみに、当時、西国の藩は米や特産品を大阪の商人に委ねていましたが、いいように中間搾取されていました。
それを、方谷は直接、江戸に運びました。
とくに「備中鍬」は大ヒット商品になります。
姫路藩も姫路木綿を、大阪を飛び越し、江戸に直送、中抜きを排除して成功しました。
もしかしたら、現代も、生産者と消費者の物流ルートの構造を見直したほうがいいかもしれませんね。
中抜き云々は別として、物流ルートが作られた時代と現在では、産業構造も人口構成も変化しているから、もっと効率的なルートが作れるかもしれません。
備中高松藩に話を戻すと、最長50年返済を約束していた借金は当初より早めに返済が終ります。
まとめ
- 現代政治と変わらない
→ 主要産業からの転換を図ること - イノベーションを起こすのも大変
→ 人間関係の基本を忘れるべからず - 情報公開とケインズ政策
→ その場しのぎの「嘘」ではなく、信頼関係が大切
→ 活力のある社会を作り出すこと