【読書】『デジタル・ミニマリスト』【テクノロジーを主体的に活用せよ】
井上智洋さんは、人々に与えられた一日の時間を、「有価値労働時間」「無価値労働時間」「余暇時間」に分けて分析しています。「有価値労働時間」と「無価値労働時間」は井上さんの造語である。(『人口減少社会の未来学』)
無駄に長い会議、必要のない書類作成などが「無価値労働時間」である。
井上さんは「無価値労働時間」を排除して「有価値労働時間」「余暇時間」に振り向けることを提唱する。
だれの話だったかすっかり忘れてしまったのだが、資料のホチキスを「縦」に入れるか「横」に入れるか「斜め」に入れるかという「無価値労働時間」があったそうだ。
私も、他人が作った資料を読んでいるだけという会議に、1時間以上参加させられる「無価値労働時間」を味あわさせられたことがある(その資料をコピーして配ってくれれば5分で読み終わる)。
つい愚痴を言ってしまったのだが、他人から時間を奪われるとこれほどの「怒り」を感じるというのに、自分で自分の時間を奪っていることには怒りを感じないのは、おかしなことではないか?
スマートフォンやインターネット常時接続は、確かに私たちの生活を便利にした。これは紛れもない事実である。
しかし、「新しいテクノロジー」は、いつのまにやら時間を奪うようになってしまった。
それも、自分自身が気がつかない間に。
スマートフォンやインターネット常時接続は「無価値労働時間」を作り出している。
それはなぜか?
そして、それにどう対処すればいいのか?
問題は「スマホ依存」
初代iPhoneの最大のセールスポイントは、iPodと携帯電話を一つにしたこと、つまり別々のデバイスを2つポケットに入れて持ち歩く必要がなくなったことだった。
電話をかける、音楽を聴く。
のみならず、写真を撮る、本や雑誌を読む、個人的には電卓が使いやすくなって便利だったのだが(20×3+12×5とか)、複数のデバイスをカバンの中に入れなる必要がないということは、荷物が軽くなったということであり、ミニマリストでなくてもこれほど重宝するアイテムはないだろう。
しかし、問題は「便利である」ということではない。
ここ10年ほどの間に、スマホとインターネット常時接続は別の問題を生み出してしまった。
時間の使い方を自分でコントロールできなくなってしまったのである。
すなわち、時間の使い方の主体性を奪ってしまったのである。
誰しもこのような経験はないだろうか。天気予報を調べようとしただけなのに、なんとなくニュースサイトに飛んでいってしまったことが。
じつは、このことは「自制心」だけの問題ではない。
こと「自制心」の点について、新しいテクノロジーは中立ではない。新しいテクノロジーはあなたの時間を奪うことに長けている。そして、それにまんまと引っかかっている。
間歇強化
決まったパターンで報酬を受け取るよりも、予期せぬパターンで与えられた報酬のほう喜びが大きくなることが、実験で証明されている。
新しいテクノロジーは「予期せぬフィードバック効果」を利用して、あなたの自制心を奪っている。
SNSの情報やニュースサイトのHPを見続けていれば、100個に2、3個は「当たり」があるだろう。
その「当たり」に期待して見続けるのだが、実際には97~98個の「ハズレ」を見ている時間のほうが長いのだ。
そして、そのことに気がつけない。
承認欲求
旧石器時代の人間にとって、社会的評価は生死に関わる問題だった。
現代の人間にとっても社会的評価は必要な問題である。しかし、「生死」に関わるか問われると、そこまででもない。
少なくとも”いいね”が一つももらえないからといって、生死に関わることはない。
「おいしいラーメンを食べた」に”いいね”がゼロであろうが100であろうが、おいしいラーメンは食べている。
「注意」を引きつけることに長けている
1833年、新聞社主ベンジャミン・デイが初の1ペニー新聞を創刊した。
このときまで、新聞社は読者を顧客とみなし、金を払っても読みたいと思わせる商品を届けることを理念に掲げてきた。
ベンジャミン・ディの1ペニー新聞の何が画期的だったかといえば、読者を商品とし、広告主を顧客としても商売が成り立つと気づいたことだった。
読者を集めること、そして集めた読者を広告主に販売すること、これが商売として成り立つのだ。
時代が変わり、スマートフォンとインターネット常時接続の時代に、このビジネス・モデルが応用される。
スマートフォンなら1日24時間いつでもユーザーに広告を届けられる。
同時にユーザーの情報を収集して、見せるべき広告の精度を、かつてないレベルまで向上させることができる。
デジタル・ミニマリズム
デジタル・ミニマリズムと呼ぶべき人々は、費用対効果を常に意識している。デジタル・ミニマリズム
自分が重きを置いている事柄にプラスになるか否かを基準に厳選した一握りのツールの最適化を図り、オンラインで費やす時間をそれだけに集中して、ほかのものは惜しまず手放すようなテクノロジー利用の哲学。
ツイッターを100個見て、1個か2個しか使えないのなら、残りの99個や98個を見ている時間は「無駄」でしかない。
それなら、98個や99個を見ている時間に別のことをすればいい。
「無価値労働時間」を「有価値労働時間」と「余暇時間」に振り向けるのだ。
デジタル・ミニマリズムの3原則
「時間管理」が難しいのは、目に見えない時間を管理しなければならないからだ。
原則1:あればあるほどコストがかかる
原則2:最適化が成功のカギである
原則3:自覚的であることが充実感につながる
デジタル片付け
カル・ニューポートさんの経験から言うと、習慣をちまちま変えていく方法は成功率が低いそうだ。
だから、一気に移行してしまうことをおススメしている。十分な決意をもって短期間のうちにやり遂げてしまうほうが、成功率が高いらしい。
- 30日間のリセット期間を定め、必ずしも必要ではないテクノロジーの利用を休止する。
- この30日間に、楽しくてやりがいのある活動や行動を新しく探したり再発見したりする。
- 休止期間が終わったら、まっさらな状態の生活の中に、休止していたテクノロジーを再導入する。そのひとつひとつについて、自分の生活にどのようなメリットがあるか、そのメリットを最大化するにはどのように利用すべきかを検討する。
興味深いのは、離脱した理由は意思の弱さではなかった。離脱の理由でもっとも多かったのは、実行の仕方をほんの少し誤ったことだった。例えば、ルールが漠然としすぎているか、厳格すぎたりするか。
テクノロジーを排除して空いた時間に何をするかをあらかじめ考えておかなかったために、不安や退屈につながった失敗例も多いそうだ。
演習
大雑把に抜き出せば「一人で過ごす時間を持つ」「”いいね”をしない」「趣味を取り戻そう」「SNSアプリを全部消そう」という分類に分けられるのだが、2つだけ抜き出そう。
趣味を取り戻す
時間というものはトレードオフの関係にある。何かをしていたら、別の何かができなくなる。人々は一日十二時間もフェイスブックに費やしているんだと夢中になってしゃべった・・・・・そこで私は訊いたんだ。「一日十二時間もフェイスブックをやっているような人物が、きみと同じような成功を果たして収められるだろうか」と。
フェイスブックが便利なサービスであることは認めるが、だからといって、やりすぎたら別のことができなくなる。
好結果を手にしたデジタル・ミニマリストたちは、余暇の過ごし方を改革したところから始めていることが多い。
上述したが、デジタル片付けに失敗した人たちは、空いた時間に何をするかを考えていなかったことだ。
それなら、質の高い余暇活動を先に始めよう。
矛盾するように思えるかもしれないが、同好の士を探すには、フェイスブックをはじめとしたSNSは有益なツールである。
問題になるのは、時間の使い方である。1時間フェイスブックを見続けていたら、1時間趣味の時間が削られることになる。
何がどこまで有益なのか。その有効性を最大化せよ、というのが「デジタル・ミニマリズム」の骨子である。
SNSアプリをスマホから消す
モバイル事業の採算性が高いのは、1日24時間いつでもどこでもアクセスできるからだ。
パソコンのウェブブラウザを介してアクセスするバージョンは、ユーザーがパソコンの前に座っている間だけしかない。
したがって、SNSを利用するなら、モバイル版のアプリには近づかないことだ。サービスから退会する必要はない。外出先からアクセスするのをやめるだけで十分だ。
パソコンからSNSを使い続けると、価値の高い特定の目的があるときだけログインするようになる。しかも、ごくたまにアクセスするだけでいい。
ということで、私も実行してみた。予想以上にスマホを使う時間が激減した。
にもかかわらず、入手しなければならい情報を見逃すこともない。むしろ、見逃す確率が減ったのではないかとすら思える。
要するに、効率的になったということだ。
まさか、たったこれだけのことでよかったのか。