【読書】『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』

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シチリア王国と神聖ローマ帝国を回復

 フリードリッヒは、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒと、シチリア王国唯一の相続人コンスタンツァの子どもとして生まれる。しかし、三歳で父を亡くし、四歳で母を亡くして孤児になってしまう。
 四歳から一四歳まで独立独歩、つまり自由に過ごす。
 宮廷を抜け出して遊びに行く。
 しかも、シチリアだからイスラム教徒もアラブ人もいる。
 書物は乱読。
 ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシア語、アラビア語を理解した、というから、ずいぶんたくましく成長したものである。
 言語能力もうらやましいところだが、一番大きかったのは、シチリアがキリスト教徒とイスラム教徒が共生していたことを、体験できたこと。

 ちなみに、時代は中世。皇帝だ王だと主張してみても、力、つまり武力を行使しなければ誰も権利を認めてくれない時代。
 事実、ドイツはザクセン公オットーが、シチリアでは封建諸侯が、好き勝手に振る舞う。
 ドイツのライバル、ザクセン公オットーは、いわば勝手にこけてくれたので、神聖ローマ皇帝位を取り戻した。そして、ドイツの封建諸侯は温存したまま、封建制のままでいく。
 対して、シチリア王国は封建諸侯を取り込んでいく形での、中央集権制法治国家を作り上げる。

 ここで思い出したのは、漢帝国初代皇帝、劉邦。漢帝国初期は郡国制、つまり封建制と中央集権制が併存していた。
 大国を手中にして成功する人は、似たようなことを考える。無理をしないのである。
 考えてみれば、君主権が確立されていればいいわけで、中央集権制の確立に、ムキになって慌てて急いで・・・・・とやったら別の問題が発生する。
 事実、ドイツではオットーが強圧的な態度で嫌われていたし、シチリアでは父王ハインリッヒが強圧的な態度で恨まれていた。始皇帝死後、秦は滅亡する。
 そうなるくらいなら、無理をしないほうがいい。
 それに、キリスト教徒とイスラム教徒が共生できる。そうであるなら、キリスト教徒同士でも共生は可能だし、封建制と中央集権制の共生も可能である、と考えたのかと思うと、ずいぶん柔軟に対処したのである。

 大国の君主というものは、無理をせず、ムキならず、慌てず、焦らず、柔軟に、対処しなければならない。

 しかし、四歳で孤児になったのに、神聖ローマ帝国皇帝位とシチリア王国を取り戻すなど、たくましすぎる成長である。

無血十字軍

 キリスト教徒とイスラム教徒が共生しているシチリアで幼少期を過ごしている。
 そして、イスラムのスルタン、アル・カミールは中近東に住むキリスト教徒の存在を容認している。
 そこから導き出された答えは、キリスト教徒とイスラム教徒が中近東で共生することも可能である、ということ。
 ということで、フリードリッヒの率いた第六次十字軍は、一戦も交えずして、無血で講和することになる。

 これは、塩野さんの想像。

イェルサレムがイスラムの支配下にあるかぎり、ヨーロッパに住むキリスト教徒の胸も頭も熱い状態でつづき、十字軍を組織しては侵攻して来るのをやめない
 フリードリッヒからの提言であり、スルタン・アル・カミールも、それを承認したのではないか?
 十字軍の「目的」が「聖地奪還」であるなら、戦おうが戦うまいが、奪還したのだから、文句言われる筋合いはない。
 聖地巡礼したいキリスト教徒は、喜ぶ。
 東地中海を足場とする交易商人も平和に商売できるから、喜ぶ。
 イスラム勢の攻撃に耐えていた中近東の十字軍国家も一安心で、喜ぶ。
 一戦もしなかったとはいえ、遠征なのだから死傷者がゼロということはないだろうが、戦うことに比べたら軽微な損害しか出なかったであろう兵士も、喜ぶ。
 もしこれが、「一戦」してイェルサレムを奪還していたら、どうなるか?
 キリスト側もイスラム側も、「○○の仇」と顔を合わせながら生活をしなければならないのである。いくら講和したからと言われても、人の心はそう簡単なものではない。復讐と怨念が残れば、心中穏やかざらなるものがある。
 「無血十字軍」と「講和によるイェルサレム奪還」は、その後の「平和」まで保障したのである。

 しかし、この「講和」には、キリスト側もイスラム側も「非難」することになる。
 イスラム側は「屈辱」と断じているが、その気持ちは想像できる。せめて一戦してからにしてくれとか、怯えるんじゃないとか思ったら、非難したくなる気持ちもわかる。
 しかし、キリスト側の非難はそれを上回る。
「異教徒イスラム教徒と講和を結ぶとは何事ぞ!」
「聖地は、キリスト教徒の血を流して奪還しなければならない」
 そんなものはどうでもいい。
 少なくとも、「聖地奪還」と「平和」の前では、些事である。

コンスタンティヌスの寄進書

 分かり合えないのは法王である。中世では、
「ローマ法王は太陽で、皇帝は月」
なのである。
 中世ヨーロッパ社会を揺るがした、法王派と皇帝派の対立は、教会が定める司祭の叙任権をめぐる抗争ではない。
 「コンスタンティヌスの寄進書」というものがある。321年に、ローマ皇帝コンスタンティヌスが当時のローマ法王であったシルヴェステルに、ローマ帝国の西半分を贈ると明記した文書。これが信じられていた。
 ローマ法王はヨーロッパの領有権を有し、皇帝や王といえども世俗の領主の叙任権が法王にある、という論理。

『コンスタンティヌス大帝の寄進書』が真赤な偽物であることが実証されるのは、一四四〇年になってからである。ナポリ王の宮廷に仕えていた人文学者ウマニスタのロレンツォ・ヴァッラが、書誌学の方法を駆使して、「完全なでっちあげ」であることを実証したのだった。
 しかし、それは15世紀のことであり、フリードリッヒの生きた13世紀の人びとは、「コンスタンティヌスの寄進書」が信じられていたのである。
 しかし、フリードリッヒは、それにとらわれなかった。
「皇帝のものは皇帝のものに、神のものは神のものに」
 イエス・キリストの言葉、現代風に言えば、「政教分離」が、フリードリッヒの考えである。

 しかし、法王はそんなことを考えない。
「ローマ法王は太陽で、皇帝は月」
なのである。
 ローマ法王から送られてきた手紙の返信を公開する、というやり方で、フリードリッヒは、「情報公開」を始める。
 その「情報公開」で明らかになるのは、法王と皇帝の対立は、宗教上の理由ではなく、領土という世俗的な理由である。
 ローマ法王の立場からしたら、北の神聖ローマ帝国と、南のシチリア王国から、法王領が挟み撃ちに会うことぐらい怖ろしいことはない、という気持ちはよく分かる。
 しかし、宗教を持ち出して、破門だ異端だと騒ぐ気持ちまでは理解できない。領土と宗教は別の問題だ。
 とどめの一撃は、1245年のリヨン公会議。公会議に名を借りた裁判で、フリードリッヒを異端だ、皇帝位とシチリア王位の剥奪、という判決を下す。
 法王と皇帝の対立は宗教の対立ではない。領土という世俗の対立だったのだ―――――とフリードリッヒの情報公開で知れ渡るようになる。
 フランス王もイギリス王も、ドイツの封建諸侯ですらも理解するようになる。騎士も同様。公会議開催のリヨンですら。

 宗教は人を幸せにするものではなかったか?
 それが、騒動を起こして、不安と混乱に陥れるものではない。
 と考えると、フリードリッヒは、無理をせず、ムキならず、慌てず、焦らず、柔軟に、対処することで神聖ローマ皇帝位とシチリア王国を取り戻すことをやってのけ、イスラム教徒とすら戦わずしての講和を結び共生をはかる、というのと対照的である。