【読書】『漢帝国』

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 漢帝国は中国文明に絶大な影響を与えることになりました。
 どうしてそうなったのか?
 いつの時代でも、社会の変化があって、生きるのが大変で、それでも頑張る人たちがいて、必死になって対応してきた―――――
 そのモデルが、中国にとっては「漢」だったからです。
 どういう社会変化があったのか?
 そして、どう対応してきたのか?
 そして、そこから学べることはなんだろう?

ポイント

  • 社会の変化
     氏族共同体の解体 → 中央集権に成功 → 豪族社会への変質
  • 儒教の台頭
     儒教官僚と豪族が「寛治」という方法で漢を支えることになる。
  • 外戚宦官の跳梁跋扈が漢を滅亡へと追い込んでしまう。

社会の変化

氏族共同体の解体にてこずる

 殷周・春秋戦国時代において、血族集団で構成する中国独自のシステム「氏族共同体」が社会を構成していました。
 が、それが社会の変化―――――技術進歩だったり、異民族対策であったり―――――で別のシステムが必要になり・・・・・
 いろいろ考えたシステムの一つが、法治国家による中央集権化で、成功例が秦における商鞅の変法。
 そして、始皇帝が天下統一したので、以降、中国の統治システムは、法治国家による中央集権になります。

 ところで、なぜ秦が、氏族共同体の解体に成功して中央集権化できたのか?
 理由の一つは、秦の氏族共同体が弱かったから。
 他の国は氏族共同体の力が強く、それゆえ強力な反秦へとつながります。
 とはいっても、法治国家による中央集権は優れたシステム。
 それに反抗して、封建制に戻そうとした項羽は破れます。
 しかし、残存した氏族共同体を早急に解体しようとすると、秦の二の舞になる。
 そこで、漢高祖劉邦は極めて簡単な対応をします―――――自分の代ではやらない。
 秦の地域は郡県制でそれ以外は封建制。これが「郡国制」。
 秦が一気呵成にやろうとして失敗した轍を踏まず、項羽が封建制復活に逆行した轍も踏まず、劉邦も漢も、焦らなかったのです。

中央集権

 焦らなかったといっても、氏族共同体を解体しなければ、法治国家による中央集権は不可能。
 漢は、中国各地に残存していた氏族共同体をどうしたのか?
 上からの解体が封建諸侯の細分化。
 「徳」を口実にして兄弟に分割相続させて一つ一つを細分化して弱体化。逆らえないほど弱くなったところで、口実を作って取り壊す。
 下からの解体が二十等爵制による漢の爵位の授与。
 これにより、氏族共同体による序列よりも、漢の爵位をありがたがらせる。
 こうして、上からの解体と下からの解体を同時進行させて、時間をかけて地道に氏族共同体を解体させるのに成功します。
 子や孫の代に問題を先送りするという(いかがなものかと思うが)、時間を味方につける方法で、成功したのです。

寛治:儒教官僚と豪族

 氏族共同体の解体と中央集権化に成功した漢は国力を高めることになります。
 しかし、武帝の時代に行ったのが、匈奴との戦争。
 いつの時代でも戦争には金がかかるもの。これによって漢は財政危機に。
 乗り越えるために行ったのが平準法・均輸法・塩鉄専売。
 平準法・均輸法(調べてね←雑)はある種の国家の商売だと考えれば、財政効果が上がるかは商売の技術にかかってくる・・・・・商売の才覚がないので失敗。
 ところが、塩鉄専売に商売の才覚はいらない。生活必需品でぼったくるのは誰でもできるからだ。しかも、国家権力を後ろ盾にしてしまえば。
 かくして塩鉄専売が財政再建のメイン政策に。
 この結果、貧富の差が拡大。それが、大土地所有者=豪族の台頭を許す。
 せっかく氏族共同体を解体して、中央集権化を作り上げたのに、豪族の台頭でピンチ―――――
―――――にはなりませんでした。
 例えば、劉熊という官僚は、金を持っている豪族から金を納めさせ、金を持っていない貧民からは徭役を納めさせる。
 中央集権的支配では許されなかった、財産の大小による納税方法の変更。
 台頭した豪族を叩き潰すのではなく、有効活用することで支配の枠組みに組み込んでいく。
 後述しますが、漢が儒教を採用することで、劉熊のような能吏を生むことができたので、「儒教官僚」+「豪族」=「寛治」という政策がとれたのです。
 中央政治の失敗により生じた貧富の差の拡大だったのですが、「寛治」という方法で貧民を救うことに成功します。

儒教の台頭

 漢初、内乱で荒れ果てた農村を回復させるためと、氏族共同体を時間をかけて解体させるために、「無為自然」というのは都合のいい主張。
 こうして、前漢初期は黄老思想が主流となります。
 そして、内政が回復し、中央集権化が成功した時期に即位した、武帝がやりたいことは、匈奴征討。
 そこで都合が良かったのは、『春秋公羊伝』。漢高祖劉邦の屈辱を晴らす「復讐の肯定」と匈奴征討という「攘夷思想」はまさにピッタリ。
 宣帝の時代になると都合がよくなったのは『穀梁伝』。民間から即位した宣帝の正当性を主張する「長幼の序による継嗣」。降伏してきた匈奴王を容認できる「華夷混一の実現」。
 『春秋』は『公羊伝』『左伝』『穀梁伝』と解釈が異なるから、二千年もの長きに渡って柔軟に中国思想の正統思想であり続けることができたのです。

 しかし、天災を諫言に利用しようとする災異説が儒学に組み込まれて、混乱状態に。
 漢代の当時の漢字「今文」ではなく、漢以前の文字である「古文」を引っ張り出し、学問を悪用することで、王莽は漢の簒奪に成功。
 柔軟性は大切ですが、度を超すと、混乱につながるのです。

儒教官僚

 『春秋』とは過去の出来事から考えさせてくれるもの。成功例も失敗例も、そしてその後どうなったのかを分析する便利な文献。
 そして、各『伝』は解釈が異なるから、視点を変えるのに役に立つ。
 儒教が、中国の正統思想であり続け、劉熊のような官僚が生まれたのも、『春秋』と各種の『伝』が学問のテキストとしてばかりでなく、人生のテキストとして優れていたから。
 そして、漢の官僚は「漢家の故事」として、事件事故を積み重ねていく。
 現在のように、法律が整備されておらず、判例が集められているわけでもなく、インターネットでググれもしない時代。
 儒学を修め、故事に明るい人材は国家の官僚として必要な人材になるのです。
 劉熊のような能吏が生まれる土壌も、豪族が単なる大土地所有者で終わらず「寛治」という方法で統治の枠組みに組み込む土壌も、できていたのです。

宦官の勝利

 ところが、運の悪いことに、後漢では幼帝が続いてしまいます。
 幼い頃は母親の一族が外戚として跳梁し、外戚を打倒するために手を組んだ皇帝の幼馴染が宦官として跋扈する。
 もちろん、すべての外戚が悪いわけでもなく、すべての宦官が悪いわけでもないのですが、悪い人間というのはこういう機会を利用して跳梁跋扈する。そうして、漢帝国を蝕んでいくことに。。。。。
 皇帝の幼いうちしか権力を使えない外戚よりも、皇帝が成人したあとでも権力を行使できる宦官のほうが長く権力を握り続けることができるので、結果、宦官のほうがやっかいな存在になります。
 そして、トドメの一撃のように「党錮の禁」で、宦官の勝利。
 宦官に対する批判がエスカレートし、皇帝の批判につながり、漢の批判に発展。
 それが「黄巾の乱」が発生する土壌になり、混乱に陥り、漢の滅亡につながります。

で、どうするか?

焦らない

 「時間を味方につける」には、焦らないことが肝心。
 子や孫の時代に先送りしたと考えると、あまり好ましくはないように思えますが、分割相続させることで細分化、勢力縮小を狙うのはうまい方法でした。この方法は子や孫の世代に先送りするしかありません。
 「大国を治むるは小鮮を烹るがごとくす(大きな国を治めるには、小さな魚を煮る時のようにする)(『老子』)」と考えれば、急激な方法は避けなければなりません。
 社会変化を狙うのなら、焦ってはならない。時間を味方につけることです。

歴史から学ぼう

 『春秋』というテキスト。そして各種の『伝』。
 『春秋』は、人間に対するデータを集めることができる。そして、各『伝』は、人間に対する視点を変えることができる。
 儒教が中国の伝統思想になることができたのも、劉熊のような官僚が出現したのも、人間に対するデータを集め、視点を変えることができたから。
 ようするに、思考力が高まったから。
 「歴史から学ぶ」ことは思考力を高める役に立つのです。

できることはある

 王莽の簒奪。外戚の出現。宦官の勝利。
 ここまで見事に”魚は頭から腐る”が当てはまる例になってくれるとは。
 しかし、儒教官僚が「漢治」という方法を編み出し、豪族を支配の枠組みに組み入れたことを忘れてはなりません。
 誰かが「腐って」いたとしても、自分が「腐って」いい理由にはならない。それが「魚の頭」だったとしても。
 だれにでも、できることはあるのです。