【読書】『わが友マキアヴェッリ』第一巻③

読書読書,歴史,イタリア史,マキアヴェッリ,わが友マキアヴェッリ,塩野七生

 一四九八年五月二十三日、サヴォナローラ処刑。

この日から五日が過ぎた五月二十八日より、二十九歳のマキアヴェッリの、フィレンツェ共和国の一官僚としての生活がはじまるのである。

失職したマキアヴェッリの想いは?

 これからマキアヴェッリの「現役時代」の話になるのだが、その前に「失職した想い」を想像するのは、順番が逆であるようように思われるかもしれない。
 しかし、「現役時代」のマキアヴェッリは、まさに八面六臂の大活躍なのである。
 それでいて「失職」してしまうのだということを念頭に置いておかないと、マキアヴェッリの想いに寄り添うことはできない。

 しばらく、塩野さんの引用を続ける。

 四十四歳の男にとって、職を解かれるということは、どういう意味を持つのであろう。生計を立てる必要はもちろんあったが、それだけではなく就職した職場、その職場を四十四歳になって突然追われたら、どのような心境になるものであろうか。
 マキアヴェッリは、二十九歳の春からこの年まで十五年間務めてきた、フィレンツェ共和国第二書記局書記官の職が気に入っていたのである。出張経費の少なさに苦情を言いながらも、自分のしている仕事が心から好きだったのだ。それを汚職をしたわけでもないのに、仕事に手落ちがあったわけでもないのに、突然解任されたのである。共和政体が崩れ、かわりにそれまで追放されていたメディチ家が、政権に返り咲いたからであった。
 ダンテに追放なくば『神曲』は生まれず、マキアヴェッリにあの災難が降りかからなければ、『君主論』は生まれなかった、と人は言う。
 たしかにそうではあったろうが、当人にしてみればどんなものであろう。そうそう簡単に、不運は傑作の母であるなどとは、言ってもいられない思いではなかったろうか。
 マキアヴェッリの人生は、官僚としてはじまった。この彼の前にメフィストフェレスがあらわれ、古今の傑作『君主論』と、これまでと同じ仕事を続ける官僚生活十年のどちらかを選べと迫ったら、マキアヴェッリは、ちゅうちょすることなく、十年の官僚生活を選んだであろう。おそらく、このあたりに、実の世界から完全に足を洗って文字通りの隠遁生活に入った人の手になる著作と、マキアヴェッリの作品の違いを解く鍵が、かくされているような気がする。
 この彼の怒りは、生計の道を断たれただけの者が感ずる怒りとは、強さも質も違うのではなかったであろうか。
 人間には誰にも、その人だけがとくに必要とするなにかがあるものである。それを奪いとられたとき、それに無関心なものからすれば納得いかないほど、奪いとられた当人の怒りはすさまじい。
 マキアヴェッリにも、彼にとっては特に必要ななにかが、あったのであろう。
 それを理解するかしないかが、彼その人を理解するかしないかにつながり、『君主論』をはじめとする、彼の著作にあらわれた思想を、理解できるかどうかにもつながるのではないだろうか。

眼をあけて生まれてきた男

 マキアヴェッリは、富豪というわけでもないが、貧乏というわけでもない、という家系に生まれる。
 そして、工房にも入っていなければ、大学にも聖職界にも入っていない。子どものころから異才を放っていたわけではない。
 「標準」というか「平均」というか「真ん中」というか、これと言って目立った生まれでも育ちでもなかったようである。

青年のマキアヴェッリが、現代とは違ってほんのひとにぎりのエリートがいく当時の大学に進学させるほどの、秀才ではなかったのではないかということである。少なくとも、既成の秀才のわくにはまるタイプの、才能の持ち主でなかったのではないだろうか。
 今ではこの点は、あまり重要ではないと考えている。

 “学歴コンプレックス”でイライラした人に、
「キャリアなんて関係ない!」
と吹っ掛けられたことがある。
 なので、
「そうだ、中卒新人だ!」
と言い返してみたら、爆笑だったんだけど。

 考えてみれば、高校生のアルバイトに仕事を教えても、できる人はできる。
 中年どころかそろそろ老年だというのに、出世して肩書までついているというのに
「そんなこともできないの?」
と白い目で見ることすら諦めるような人もいる。
 子どものころ、少年のころも重要だと思うが、青年期、成年期だって重要である。
 伸びる人はいくつになっても伸びる。成長する人はいくつになっても成長する。学習する人はいくつになっても学習する。
 マキアヴェッリはそういう人だったのだ。

「ニコロ・マキアヴェッリは、眼をあけて生まれてきた。ソクラテスのように、ヴォルテールのように、ガリレオのように、カントのように・・・・・」
 と、ついこのあいだまで百歳を迎えながら生きていた、というよりその歳まで頭の冴えを失わなかったイタリアの作家ジュセッペ・プレッツォリーニは、『マキアヴェッリの生涯』の冒頭を、このようにはじめている。
 「眼をあけて生まれてきた」人であれば、先生はいくらでもいる。誰からでも学習する。

生粋のフィレンツェ人

 一国の指導者に対しての論評なのだからわからないでもないが、マキアヴェッリが、ロレンツォの「不徳」として述べている箇所など、よくもまあぬけぬけと書けますね、と言いたい気持ちになってくる。
 女に惚れていたばかりなのは、マキアヴェッリである。男同士となると、ふざけたりからかったりするにとどまらず、しばしば、小学生などにはとうてい読ませられないようなことを、話したり書いたりしたのもマキアヴェッリである。馬鹿騒ぎ好きにいたっては、翌日後悔で友人に顔もあわせられなかったのではないかと、他人事ながら思ってしまう。マキアヴェッリだって、快楽的であると同時に思索的だったのだ。一人の人間の中に、相反した二人の人間が棲みついていたのは、マキアヴェッリとて同じだったのである。

 子どもに混じって「缶蹴り」したことはないけれど、馬鹿騒ぎするのは好きだという、自分の「不徳」を言い訳はできそうである。
 ひっきょう、二人とも、生粋のフィレンツェ人であったのだろう。基本的に相反する二つの性向をもちながら、なおも力量を発揮しうる、芸術家であったのだ。フィレンツェが、ルネサンス発祥の地になったのは、偶然ではない。フィレンツェ人特有のこのひらめきは、同じ文明圏に属しながら、ヴェネツィア人にはないものであった。
 両方の極端に走りながら、それが一人の人間の中にあり、それで力を発揮する。
 それがフィレンツェ人であり、ロレンツォであり、マキアヴェッリだったのだ。

 だが、ロレンツォとマキアヴェッリが“生粋のフィレンツェ人”であったとしても、時代が違った。

 都市国家であるフィレンツェ共和国の独立と自由を守ることが、同じ文明圏のイタリアの独立と自由を守ることにつながり、またそれに専念しさえすれば、フィレンツェの独立と自由を守ることになって返ってくるという確信を持てた時代に生まれたのがロレンツォ・デ・メディチである。反対に、二十年遅れて生まれてきたばかりに、マキアヴェッリは、都市国家であるフィレンツェ共和国の独立と自由を守ることが、同じ文明圏としてのイタリアの独立と自由を守ることにつながらず、またそれに専念すればするほど、フィレンツェの独立と自由を守ることに返ってこないという、時代に生きるしかなかったのであった。
 フィレンツェの独立と自由。
 イタリアの独立と自由。
 それが「両立」する時代に生きたのがロレンツォで、「背反」してしまう時代に生きたのがマキアヴェッリである。
 そのいきさつは、【読書】『わが友マキアヴェッリ』第一巻②で書いた。
 サヴォナローラの支配下に入ってしまったフィレンツェの「ツケ」は、イタリア内で孤立という形で払わさせられることになる。
 ゆえに、マキアヴェッリの「現役生活」は「ツケ」の支払いで東奔西走させられるハメになる。

 一四四九年、ロレンツォ・イル・マニーフィコが生まれる。
 一四六九年、ニコロ・マキアヴェッリが生まれる。
 その差、二〇年。
「現代は、変化のスピードが速いから・・・・・」
と人は言うかもしれないが、ロレンツォとマキアヴェッリだって二〇年の差しかない。それなのに、フィレンツェを取り巻く環境がこうも変わっている。
 「失われた二〇年」がいつのまにやら「三〇年」になってしまったけれど、そんなことをいってへこたれている場合ではない。
 マキアヴェッリは、へこたれなかったのだ。
 “生粋のフィレンツェ人”のバイタリティ。熱くてもクールなインテリジェンス。
 マキアヴェッリの活躍は第二巻に詳述される。