【読書】『紅顔』
明末清初の中国。
明から清に降った呉三桂が主人公。
「漢奸」(裏切者)とよばれることを嫌い、史書には「二朝の臣」として記されることを忌んだ、中国人。
なんだけど、中国側の明の朝廷の腐敗には絶望するしかなく、その明に攻め込んでいる異民族の女真族「清」のほう正しい政治をしている。
そんな状態ではどちらが正しいのか?
どちらに忠義を尽くせばいいのか?
「民を、朝廷は裏切らなかったか。裏切ってこなかったか。万暦の御代からこの方、民の期待と信頼を裏切り続けてきたではないか。神宗(万暦帝)は政を放棄し、福王の暴虐を放置して民の苦しむままにしたではないか。光宗(泰昌帝)は三案の因を作り、憙宗(天啓帝)は魏忠賢」をのさばらせ、懐宗(崇禎帝)は――。崇禎帝は、無実の袁将軍を殺したではないか。多くの将を疑い追い詰め、追いやったのは崇禎の帝ではなかったか」その他もろもろは省略します(←調べてね)。
でも、袁将軍だけ解説。
清の太祖ヌルハチは、南下を図って山海関を攻撃するも、敗退。その時の怪我が原因で死去。
この時、山海関を守っていた明将が袁崇煥。
ヌルハチの後をホンタイジが継ぎ、山海関を攻撃するも、袁崇煥の守りは固く、山海関を抜けず。
そこで一計を案じたホンタイジ。袁崇煥に謀反の疑いあり、という偽情報を明の朝廷に流す。
明の朝廷はこの謀略に引っかかり、袁崇煥を処刑してしまいます。
時の明・崇禎帝は多疑―――猜疑心の異常に強い人物だったといわれている。
加えて、明の朝廷は武将の功績をねたんで足を引っ張る傾向に。
こんなことを目の当たりにしたら、明の武将が裏切りたくなる気持ちがよく分かる。
とはいっても、時代は乱世。
わざわざ女真族の清につく必要はない。
反乱軍・李自成が崇禎帝を攻め滅ぼしたのだから、このチャンスに呉三桂が帝位を狙ってもいいんだけど―――――という「野心」を呉三桂が持ってしまったら。
しかし、その「野心」が清のドルゴンと見えることで、果たせぬ夢だと理解してしまったら。
もしも、自分たちが中国の主になるようなことがあれば、こんな政治をしたい。腐敗しきった大国がすぐ隣にあるだけに、その思いは切実だったろうし、外から見ているだけに是正すべき欠点もよく見えただろう。
呉三桂が、一瞬でも帝王になろうと夢想した男なら、ドルゴンはずっと夢の中で帝王であり続けた男なのだろう。人間の資質の問題なのか。
時間の問題なのか。
機会の問題なのか。
出身―――中国人が思いつかないことを、満州人は思いついてしまったから―――なのか。
いずれせよ、呉三桂の野心は形にはできず、清のドルゴンのほうが形にできてしまうことに。
野心をもってしまったが故の歯がゆさ。
(あの男なら、どうしただろう)「野心」をもっているから、才能を磨くことができる。
常に余裕の微笑を絶やさなかったドルゴンは、その笑顔の下で深謀遠慮をめぐらせていた。彼我の才を比べれば、はるかに及ばないだろうが、それでも「彼ならば」と思うことで、多少深く考えることができた。
相手の才能を認めることができる。
そして、自分もそうなろうと考えることができる。
才能を磨くには、野心が必要なんだ―――――
それが幸せな人生か、結果どうなるか、はともかくなんだけど。