【読書】『ローマ人の物語 ハンニバル戦記[上]』03【運命共同体】
「カバーの金貨について」にこう書いてある。
混じり気なしの黄金であることといい、鋳造技術の水準の高さといい、紀元前三世紀に入った当時の地中海世界の大国は、まぎれもなくカルタゴであったのだ。一方のローマは、ようやく自前の通貨を鋳造できるようになったという状態。
だが、このポエニ戦役も経過を追っていけば、長期戦とは経済力が優れている側が勝つとは限らない、ということも示してくれるのである。『「超」入門 失敗の本質』は、太平洋戦争で日本が敗れた要因を、国力の差だけではなく、戦略と組織力にもあるとしている。 ポエニ戦役も、勝敗の帰趨は国力の差だけではないことを教えてくれる。
経済力、軍事力、そして知力までカルタゴの方が勝っていたのだ。
それにもかかわらず、敗れたのはカルタゴの方であった。
概略
シチリアとメッシーナ間の海峡を塩野さんは
最短距離ならわずか三キロ。本土の連絡船の発着地ヴィラ・サンジョヴァンニからメッシーナの港まででも、七キロしか離れていない。この間を結ぶ連絡船に乗れば、コーヒーを注文して、それをゆっくりと飲み終わるころには着いている。と書いている。
私には文才がないので、GoogleMapを利用する。 ちなみに、チュニス―パレルモ間でも同じようなことをやってみる。 「フェリーの乗船時間」は、イタリア半島とシチリア島の間は、約30分。対して、北アフリカとシチリアの間は8時間以上かかる。
シチリアのメッシーナの住民代表がローマに救援を求めてきた。南から攻撃してくるシラクサの攻撃に、自力で耐えるのは不可能と判断したためだ。
メッシーナは、カルタゴとローマかのどちらに救援を求めるかで議論し、ローマを選択した。
とはいえ、救援を求められたローマも困った。
ローマは海軍を持っていない。メッシーナも同盟関係にはない。
なによりも、地中海最強のカルタゴと対戦することになるかもしれない。
しかし、メッシーナの救援を断れば、彼らはカルタゴに救援を求めるに違いなく、そうなれば、現代のフェリーで30分弱のところまで、カルタゴに迫られることになる。
ローマはメッシーナ支援、シチリア出征を決定する。
第一次ポエニ戦役
シチリアは、入植者のギリシア人同士がもめた挙句、フェニキア人のカルタゴが漁夫の利をさらう、という歴史を持っている。
そこにローマ人が上陸した。
ローマ軍に危機感を持ったのは、シラクサの僭主ヒエロンと、カルタゴだった。シラクサとカルタゴは急遽、同盟を結び、メッシーナのローマ軍に襲いかかる。
ローマ軍を率いる執政官アッピウス・クラウディウスは、シラクサに講和を申し入れるが、シラクの僭主ヒエロンは、これを拒否。
クラウディウスは、はじめにシラクサ軍を破り、返す刀でカルタゴ軍を破る。カルタゴを追撃せず、シラクサの城壁に迫る。
シラクサの僭主ヒエロンは、シラクサが簡単に陥ちるとは思わなかった。しかし、ローマ軍と戦っている間にカルタゴに漁夫の利をさらわれることを怖れる。
ヒエロンはローマに講和を申し込む。ローマ側の出した講和条件は、実に寛容なものだった。
この同盟を、シラクサの僭主ヒエロンは守り続ける。ローマが苦境に陥ったときも、見離すどころか支援までする。ヒエロンがハッキリとローマ側についたのは、現実的な選択だった。
ちなみに、同盟締結時のローマ側の執政官はマニウス・ヴァレリウスとオタチリウス・クラッススである。
オタチリウス・クラッススはサムニウム族出身の平民だった。サムニウム族は40年もの長い間ローマと闘っている。「ローマ連合」に加わってからにしても、20年しかすぎていない。
自分たちの指揮官にすら、かつての敵を選出している。
このローマ人の性向が、メッシーナがローマに援けを求めた理由であり、シラクサの僭主ヒエロンが講和を結んで破ろうともしなかった理由でもある。
逆に、カルタゴは支配と服従しか求めていない。
ローマは、敗戦の将や海難事故の責任者に再び戦闘指揮を執らせている。
雪辱の機会を与えるためではない。失敗から学んでいるからに違いない、と考えたからである。
とはいっても、指揮官にふさわしくない行動をとれば断罪する。
トラパニの海戦での指揮官プルクルスは1万2千デナリウスの罰金刑を受ける。
ローマ軍では出陣前にニワトリのエサのついばみ方で、吉凶を占っていた。従軍する占い師はニワトリを絶食状態にしておくくらいのことはするのだが、なぜかその日は餌をついばまない。
プルクルスは怒り、「水ならば飲むか!」といって、海に放り込んでしまった。
宗教を信じるか信じないかは、個人の問題である。ただし、信じる者の多い共同体を率いていく立場にある者となると、個人の信条より指導者の振る舞いの方が重要である。
執政官プルクルスは、「リーダーには許しがたき浅慮」を罰せられたのである。
逆に、カルタゴは敗戦のたびに指揮官に責任を取らせ、死刑に処している。
前247年カルタゴは、ハミルカルをシチリアに投入する。
ハミルカルは、現代ではモンテ・ペレグリーノと呼ばれている丘の上に布陣する。
ここからならば、パレルモの市街も港も、水平線の向こうから南下してくるローマ海軍もとらえることができる。
そして、味方のこもるトラパニ間への補給線までも確保する。
この補給線を監視下に置けるのはエリチェの山上で、そこを占拠しているのはローマ軍。しかし、エリチェは遠すぎた。
結果として、カルタゴ兵が往復しても、ローマ軍は、手をこまねて見守るしかない。
どこに布陣するか―――――明らかにローマ軍よりハミルカルの方が優れていた。
カルタゴ軍はローマ軍に比べて兵力が少なすぎた。ハミルカルは会戦に訴えることはせず、ゲリラ戦法でローマ軍を悩ませ続ける。
ゲリラ戦法は陸上ばかりか海上でも発揮される。第一次ポエニ戦役ではじめて海軍を建造したローマ軍は、接近戦になると強かったが、操船術を発揮された遠距離戦になると弱い。そこを突かれたのである。
なによりも、ハミルカルは見抜いていた。ローマの窮乏を。
ローマ軍は、海戦での被害以上に、海難事故で多くの人命を失っていた。そのたびに船を建造し続ければ、国庫も尽きる。
対するカルタゴに海難事故はない。戦闘も傭兵に任せていたから、自国民に影響はない。
このまま戦線が膠着すれば、困るのはローマの方だった。
布陣、ゲリラ戦、戦線の膠着化でローマ国庫の困窮を招く。ハミルカルはローマの弱点を、これでもかこれでもか、と突いていたのである。
というより、はじめからカルタゴが力技で押し通してしまえば、結果は違ったのだろう。しかし、カルタゴは本国が分裂していた。「国内重視派」と「対外進出派」に。
現代からは想像できないが、当時の北アフリカは豊かな農業地帯であった。そして、カルタゴの農園経営力も優れていた。
「国内重視派」からすれば、シチリアが無くても充分に豊かだったのだ。しかし、「海外重視派」から見ればシチリアは外せない。
「国内重視派」と「対外進出派」に分裂してしまったため、カルタゴはシチリアに十分な兵力を投入できず、よって、ハミルカルの戦力は少なかった。ゆえに、ハミルカルもゲリラ戦をとるしかなかったのだ。
それに対して、ローマ側は結束していた。
紀元前242年当時、ローマの国庫は空だった。
しかし、ローマは勝負に出る。戦時国債を発行して200隻の軍船を建造する。
増税や「ローマ連合」加盟国からの徴発という方法ではなく、有産階級、元老院議員、そして政府の要職にある人々に戦時国債を購入させて。
翌、前241年3月、ローマ海軍がカルタゴ艦隊を撃破し、第一次ポエニ戦役は終了する。
戦後
ローマの元老院は困っていた。戦争でシラクサ島を獲得した。とはいっても、闘った相手はカルタゴでシラクサ島全体ではない。
メッシーナに援けを求められたから軍を送ったにすぎず、シラクサの僭主ヒエロンとは同盟関係にある。
ここに支配者面してローマ人が踏み込んだら、シラクサ島の現地人の感情を逆なでするだけである。
しかし、そうならなかったのは、ローマ人がギリシア文化に傾倒していたからである。
アテネ衰退後のギリシア文化の一大根拠地はシラクサだった。ローマ良家の子弟たちは、ギリシア語習得のために南を目指す。征服者の方が被征服者の方の言語を学びに行くのだから、シラクサ島と平和的な交流が生まれる。元老院は、このブームを利用する。
「全ての道はローマに通ず」のは当然で、ローマ軍が迅速な移動をできるように街道を整備したからだが、ローマ街道は軍事のみならず、商業にも好都合だ。軍隊が移動するための道路に、よからぬ輩が近づく可能性は低い。
ローマ人は、今の言葉でいう「インフラ整備」の重要さに注目した、最初の民族ではなかったかと思う。インフラストラクチャーの整備が生産性の向上につながることは、現代人ならば知っている。そして、生産性の向上が、生活水準の向上につながっていくことも。メッシーナが援けを求めたのも、シラクサの僭主ヒエロンが同盟を破ろうともしなかったのも、ここに理由が求められる。
後世に有名になる「ローマ化」とは、法律までもふくめた「インフラ整備」のことではなかったか。そして、ローマ人がもっていた信頼できる協力者は、この「ローマ化」によって、ローマの傘下にあることの利点を理解した、被支配民族ではなかったかと思う。
ローマの強大化に役立ったのは敗者も同化するシステムだいうが、これでは「運命共同体」と言ってしまったほうがいいいのではないかと思う。
法律までふくめた「インフラ整備」で、ローマ傘下にある諸都市・諸民族を「ローマ連合」という「運命共同体」に組み込んでいく。
シチリア島ばかりでなく、ローマ半島も、そのシステムにメリットを享受していたからこそ、ローマを選んだのである。
賠償金の支払いで緊縮財政を強いられていたカルタゴは、春から秋までの半分しかなかったのだから、傭兵料も半額に値切ろうとした。
もちろん、傭兵たちは納得しない。彼らは武装してるのだから蜂起する。
これに同調したのがリビアだった。
リビアでは、ポエニ戦役後、租税が倍増され不満がたまっていた。同調したのはリビアだけではない。カルタゴ領内の被支配者が加わる。ローマと違い、カルタゴでは支配者と被支配者がハッキリと差別されていた。
傭兵たちの反乱を鎮圧したのはハミルカルだった。
カルタゴは相変わらず「国内重視派」と「対外進出派」に分裂したままだった。「対外進出派」のハミルカルはスペインに拠点を移す。
スペインの支配領域を広げ、経営能力を発揮し高い生産性を誇る農園を作り出す。
シチリアを失った以上の植民地をスペインに創り出した。
とはいっても、カルタゴ本国は何も変わっていなかった。
国内は「国内重視派」と「対外進出派」に分かれたままだったし、属州も支配と服従、軍備も傭兵頼み。
問題は放置されたままだった。