【読書】『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前[上]』08
イタリアの普通高校で使われている、歴史の教科書
「指導者に求められる資質は、次の五つである。
知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。
カエサルだけが、このすべてを持っていた」
ユリウス・カエサル
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」
女と金
研究者たちが一様に悩むのは
「なぜ、カエサルはあれほど女にモテ、そして、誰からも恨まれなかったのか」
「なぜ、カエサルはあれほど多くの借金ができたのか」
である。
元老院議員の三分の一がカエサルに”寝取られた”という史家もいるが、スッラの改革によって元老院議員は600人に増やされているのだ。200人もの愛人がいたら、モテるかもしれないが、どう考えても、恨まれる。
多くの女性にモテたいと思う男性はいるだろうが、だからと言ってスキャンダルを求めてはならない。カエサルは、多くの女性にモテたのだが、スキャンダルにはならなかった。
まず、カエサルは愛人の存在を、誰にも隠さなかった。相手の夫まで知っていたというのだから、秘密ではない。
史実によるかぎり、誰とも決定的に関係を清算していない。それに、妻同伴であったとしても、愛人と会えば世間話を始める。
イタリアのある作家によれば、「女にモテただけではなく、その女たちから一度も恨みを持たれなかったという稀有な才能の持ち主」考え方を変えれば「恨みを買わなければよい」のだが、果たして、そううまくいくものだろうか?
会計検査官就任時には、一説によれば1500万タレントの借金を持っていたという。じつに、11万人の兵士の1年分の給料に相当する。
使い道だが、読書、おしゃれ、友人たちへの援助、女性への贈り物、などなど。
しかし、それだけで11万人分の兵士の給料に相当するまで、借金は膨れ上がらない。膨れ上がった理由は、街道の修復、剣闘試合の主催、選挙運動などの公事などに使ったからである。
私財への転用はなく、豪邸にも墓にも興味はなかった。
これでは、反対派もスキャンダルにするのは難しい。
後世の研究者の一人も書いている。ユリウス・カエサルは、他人の金で革命をやってのけた、と。最大の債権者は、スッラのもとで金儲けにいそしんだクラッススだった。
カエサルはクラッススに操られていたという研究者もいる。しかし、それが間違っている理由は、カエサルが『内乱記』で自白している。
「そこでカエサルは、大隊長から百人隊長たちから金を借り、それを兵士たち全員にボーナスとして与えた。これは一石二鳥の効果をもたらした。指揮官たちは自分の金が無に帰さないためにもよく働いたし、総司令官の気前の良さに感激した兵士たちは、全精神を投入して敢闘したからである」「他人の金で革命をやってのけた」男である。戦争も「他人の金」でやってのけたのである。
これでは債権者のほうが恐怖をおぼえる。しかも、大隊長や百人隊長よりも膨大な債権者がクラッススだったのである。クラッススのほうがカエサルのために「よく働く」しかなくなってしまうではないか。
などなどと考えていると、バブル崩壊後の「失われた10年」に、思いをはせてしまう。銀行の立場に立てば
「もう一度バブルが発生してくれたら、債権回収可能ではないのか」
と思ってまごついていたら、10年間を無駄にしてしまった―――――そう考えると、同情の余地はある。
少年期・青年期
ユリウス一門の起源は、ローマ建国の時期まで遡れる。ロムルスの母はアルバロンガ王の娘なのだが、ユリウス一門はアルバロンガの有力者だった。
ハンニバル戦争の折、一門の一人が善戦する。その戦功により、カルタゴの言葉で「象」を現す「カエサル」と綽名される。その綽名が家族名となる。
ところが、毎年2人ずつ選出される執政官に、ユリウス一門の人は、100年の間に1人しか選出されていない。
「パッとしない名門一族」がユリウス一門だった。それに、これといった資産もあったわけではない。
前100年7月12日、ガイウス・ユリウス・カエサルは生まれる。父親のキャリアは法務官で終了している。母はアウレリア・コッタの妹。
塩野さんは”母親の愛情を浴びて育つ”ことが、カエサルの楽天性、自信、バランス感覚、積極性を育たせたという。幼少期の愛情は、十分に恵まれていた。
資産の面では劣っていたため、当時最高レベルのギリシア人の家庭教師を迎えることはできなかった。母アウレリアが選んだのは、エジプトのアレクサンドリアで学んだというガリア人だった。よって、カエサルはガリア人からラテン語やギリシア語を学んだということになる。
カエサルのバランス感覚はここでも養われたのだろう。差別や迫害、偏見は、なくそうとしてもなくならない。それは、頭では理解できても、心が納得していないことも、理由の一つである。
しかし、カエサルは、頭でも心でも理解する機会に恵まれたのだ。幼少期の体験が、型にとらわれることのないバランス感覚を育んだのだ。
カエサルの少年期に「同盟者戦役」が勃発する。
少年期ゆえ、カエサルが出陣することはない。しかし、多感な時期の重大事件は、少年の思想に影響を与えただろう。同盟者戦役は、反乱側にローマ市民権を与えるという政治的解決で終息する。その時の執政官はルキウス・ユリウス・カエサル。カエサルから見ると伯父にあたる。
マリウスもカエサルにとっては伯父にあたる。マリウスも、志願兵制を導入することで、小市民を兵役から解放し、失業者には職を与えるという、軍制改革と社会改革を同時に行っていたのだ。
ミトリダテス戦役でスッラがギリシアに向かうと、マリウスとキンナが政権を握る。スッラによって逃亡生活を余儀なくされたマリウスは、復讐にかられて大量殺戮を行う。ルキウス・ユリウス・カエサルと、その弟ガイウス・ユリウス・カエサルも犠牲になる。
当時カエサルは13歳。伯父が、別の伯父を2人殺してしまうというショッキングな事件を、13歳の少年が体験したことになる。ある研究者は、カエサルは生涯血の匂いを嫌った、といっている。
16歳で父を失い、よって家長になってしまったカエサルはキンナの娘と結婚する。キンナからすれば、マリウスに代表される民主派と、元老院派をまとめて同時に懐柔しようとする政略結婚だった。カエサル最初の結婚は政略結婚になる。
ミトリダテス戦役から戻り、政権を奪還し、独裁者となったスッラは、カエサルにキンナの娘と離婚せよと迫る。
ところが、独裁官からの命令に、カエサルは拒否し、小アジアまで逃亡する。帰国したのはスッラの死後である。
政略結婚なのだから離婚しても不都合はなかったのだが、カエサルは拒絶した。カエサル自身が何も書き残していないから、理由はわからない。
のちにカエサルも独裁者になるのだが、反カエサル派の娘を妻ににしていた部下に、離婚を迫るようなことはしなかった。
スッラの死後、帰国したカエサルは弁護士として開業する。初回の相手は誰だったか知られていないが、結果は敗訴であった。
2回目の相手はドラベッラだった。ドラベッラの属州総督時代の職権乱用のひどさは有名だったのだが、これも敗訴に終わる。
ちょうどこの時期にキケロが始めた弁論術は、陪審員と傍聴人に訴え、外堀を埋めたところで情に訴えて情状酌量を勝ち取るという方法である。現在でも欧米に見られる手法である。
しかし、カエサルはこの方法を採用しなかった。単刀直入に問題点を突き、情状酌量を訴えるなど死んでもやらなかった。若い頃のカエサルは相手の心理を突く工夫をしなかったらしい。いずれにせよ、2回目も敗訴する。
2回目の敗訴は、敗れただけでは済まなかった。訴えたドラベッラは、スッラ派であった。そして、ローマはいまだスッラ派の天下だった。
危険を感じたカエサルは、二度目の国外逃亡を選ぶ。
カティリーナの陰謀
ルキウス・セルギリウス・カティリーナは、スッラのもとで武将として頭角を現す。
地中海世界の覇者となったおかげで、ローマは経済が振興する。だからといって全員が蓄財できるわけではない。生活が派手になった割には、資産も収入も多くならなかった貴族は、借金がかさむ。
他人の金で革命をやってのけたカエサルと違い、カティリーナは借金は身を滅ぼすと信じていた。カティリーナは、社会を憎み、性格も立居振舞いも暗く変わっていく。
キケロは、ならず者、殺人者、姦通者、背任者等々と非難し、カティリーナを弾劾した。もっとも、キケロの非難に証拠はない、この時点では。
前65年、借金全額帳消しを公約として、カティリーナは執政官に立候補する。無理がありすぎるし、経済原則を無視した公約だが、考えてみれば、現在の高利貸しもビックリするほどの高利の金貸し業者が存在していたのである。高利貸しの存在を前提としたら、そう言いたくもなるのかもしれない。
経済活性化は、急激な富の格差を生む。経済振興の波に乗れず、借金を重ねた貴族も、カティリーナに同調する。
スッラの元部下で、退職後に土地を与えられたが、自作農になることに失敗した者たちも加わる。誰しも農民に向ているわけではない。それに、単に土地を与えるだけでは失敗する。これらのことはグラックス兄弟の改革が、実証済みだったのだけれども。
とはいっても、カティリーナに同調したものは、それだけだった。当然のことながら、騎士階級(経済階級)が同調するはずがない。また、借金すらない無産者はカティリーナに同調する理由もない。
キケロが訴えたほど「カティリーナの陰謀」は、大した規模になっていなかった。
規模も小さかったが、能力はそれ以下だった。
首謀者グループの末席に連なっていた一人が、執政官キケロ殺害の計画を、愛人の女に打ち明けてしまう。狙われていたキケロの知るところになり、不発に終わる。
ローマの有力者の家では、朝に訪問客・陳情客が訪れることが慣例になっている。この人たちに紛れてキケロ殺害を狙うが、警戒態勢に入っていたキケロ邸は、朝の慣例行事を中止していた。そのことを知らなかった殺人者は扉の前で引き返すしかなくなる。
陰謀の仕方を教えてあげた方がいいのではないか、と老婆心を出してしまいそうになるのだが、これが陰謀といえるのかどうか。
いずれにせよ、陰謀は不発に終わる。
前62年11月8日、執政官キケロは、元老院でカティリーナを告発する。その夜、カティリーナはローマを去る。
カティリーナはエトルリアで同志を集めていたマンリウスのもとに向かうが、軍事行動は起こしていなかった。反国家蜂起の物的証拠は何ひとつないまま時間は流れる。
物的証拠が手に入ったのはこの後だった。ガリア人に接触したレントゥルス以下6人の決起代表者たちの署名付き誓文を、キケロが手に入れたのだ。
署名にあったレントゥルス以下5人を逮捕、たまたまローマを発っていたカシウスだけ逮捕を免れた。
「元老院最終勧告」発動。しかし、控訴権なしでローマ市民を処刑することに対する合法性に、キケロは不安を抱く。採決を元老院に委ねる。翌年の執政官2人は、即、死刑を訴える。
しかし、カエサルは違った。
元老院議員諸君、諸君にかぎらずすべての人間にとっても、疑わしいことに決定を迫られた際、憎悪や友情や怒りや慈悲をひとまず忘れて対するのが正当な対し方であると思う。マケドニア王ペルセウス、反抗したロードス島、カルタゴを挙げ
われわれの祖先は、戦いが終わった後も彼らを罰しなかった。なぜなら、戦いを起こしたこと自体は、誰といえども罰することはできないからだ
それでだが議員諸君、現在のわれわれにも祖先に恥じないで済む対し方が求められている。レントゥルス以下の者たちの馬鹿げた行為にいかに対処するかも、憎悪ではなく、われわれのもつ名への誇りによってなされんことを望む。問題は、行為に妥当な罰は何か、ということだ。
とはいえ、これらの弁論の真に目的とすることは何なのか。陰謀をより憎悪させるためか。実際には何もしていない者に対して、彼らがすると予想された事態への恐怖をあおるためか。
何よりも絶対に憎悪に眼がくらんではならない。普通の人にとっての怒りっぽさは、権力者にとっては傲慢になり残虐になるのである。
どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によってなされたものであった。だが、権力が、未熟で公正心に欠く人の手中に帰した場合には、良き動機も悪い結果につながるようになる。はじめのうちは罪あること明らかな人を処刑していたのが、段々と罪なき人まで犠牲者にするようになってくる。
今回が先例となれば、先例があるからといって執政官が、そして『元老院最終勧告』が剣を抜きはなった場合、誰が限界を気づかせ、誰が暴走を止めるか。
元老院議員諸君、われわれの祖先は、勇敢でありつつも分別は忘れなかった。彼らは、良しとするものならば他国人から学ぶことを妨げるような、傲慢さはもっていなかった。カエサルの出した提案は、5人の資産没収、それぞれ別の地方に監禁、元老院でも市民集会でも発言禁止。そして、以降、これらのことに違反した場合に、刑を与えること、だった。
カエサルの演説で、元老院の空気は動揺する。
だが、小カトーがカエサルの提案に反論する。小カトーの主張は、疑わしきは罰する、の一言に尽きる。
前65年12月5日、元老院最終勧告、実施決定。キケロ、カトーは歓呼を浴びるが、カエサルは袋叩きになり、危うく殺されるところだった。
カティリーナ派の5人は処刑された。カティリーナ本人はローマにいなかったので処刑されなかったが、1万2千人が終結していた。大部分は奴隷や貧民たちで、武器もなければ武装もしていない。それらの人々をカティリーナは故郷に返した。
残ったのは3000人。その3000人を率いて何をするつもりだったのかは分かっていない。ほぼ全員が討ち死にしたので、証言できる人がいなくなってしまったからだ。
元老院の強硬策に拍手喝采した一般市民だったが、5人の処刑と3000人の討死は、そこまでやる必要があったのかと、後悔する。
カエサルは、一般市民の後悔の念に付け込む。元老院派にゆさぶりをかけることはできた。
元老院派の長老で「第一人者」のカトゥルスが、高齢であったため、欠席しがちであった。そこで、代わりの「第一人者」にポンペイウスを選出するように市民集会に提案する。
セルトリウス戦役、地中海の海賊一掃作戦、ミトリダテス戦役、いずれも勝利に導いていたポンペイウスは、市民からの人気は高い、
国家ローマとしては喜ばしいことだが、元老院派にとっては脅威でしかない。
スッラ同様に軍隊を率いてローマに向かうのか。ポンペイウスにはローマ進軍ができる実力がある。そうなった場合、スッラ同様の独裁政を敷いてしまうのか。