【読書】『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後[中]』12
戦後処理
「よせばいいのに」と思うのだが、懲りないことでは父王ミトリダテス譲りであったのか、ポントス王ファルナケスは他国に侵攻を開始する。
ギリシアでポンペイウスとカエサルが戦っている隙をつく。大義名分は、父王の領土再復。
父王の領土といっても、周辺諸国を侵略していたのだから、周りの国からすれば侵略でしかないし、覇権国ローマが認めることはできない。
カエサルはドミティウスに三個軍団与えて派遣したが、ドミティウスにとっては気の毒な仕事になる。
旧ポンペイウスの志願兵ばかりの三個軍団だったうえに、アレクサンドリア戦役勃発で、カエサルから二個軍団を送るように命令が届く。
ドミティウスは忠実に従ったので、一個軍団でファルナケスと対峙することになる。敗れたドミティウスはシリアに逃れ、カエサルに救援を請う。
アレクサンドリア戦役を片づけたカエサルは、ゼラでファルナケスと戦う。ファルナケスは敗走し、四年後に死ぬ。
ポントス王国は、アレクサンドリア戦役でポントスからの同盟軍を率いたミトリダテスに与えられる。
武力行使したのは、アレクサンドリア戦役とポントスだけだった。その理由の一つは、カエサルの軍事的名声、もうひとつは、なによりも、カエサルの公正さだった。
地中海世界では二級民族あつかいされいていたユダヤ人に、宗教も通商の平等も認める。ユダヤ人は熱狂をもって救世主あつかいしたが、カエサルから見れば、多民族を一つに束ねる者として振舞ったにすぎない。
同様の振る舞いはオリエントの諸侯にも繰り返された。「ローマ市民の友人であり同盟者」として同盟誓約を交わす。
ポンペイウスの残党がこもる北アフリカに向かうが、ドゥラキウムの失敗は繰り返さなかった。
チュニジア東部に上陸し、タプソスの攻略を餌に、おびき寄せる。誘い出された旧ポンペイウス軍は敗れる。
小カトーはウティカを守っていたのだが、タプソス敗戦の報がもたらされると、ウティカの住民が防衛への協力を拒否した。
小カトーは覚悟を決める。
元老院体制を信じ、清廉潔白に生き、曲がったことは大嫌いな小カトー。元老院体制に「否」をたたきつけ、借金まみれでも気にせず、女たらしのカエサル。すべてにおいて対局な二人であった。
カエサルの親族だったが、ポンペイウス派に属したルキウス・カエサルに家族を託し、カエサルの陣営に向かうように命じた。
カエサルは、小カトーの親族にも、ポンペイウス派の親族にも、何も言わせずに安全を保障する。ポンペウイス派の人たちで、処刑されたものはいない。
しかし、小カトーは、自分は許してもらう気はなかった。自殺のやり方は壮絶だった。
生前は大した業績をあげることはできなかったが、死後は、絶対権力に死をもって抗した自由人の権化として名を残す。
キケロは、元老院体制派だったが、ポンペイウスの指導力には疑問を持っていた。ファルサルスの敗戦後、ポンペイウス派と袂を分かった。小カトーやポンペイウスの長男グネウスは、裏切り者、脱走者、敵前逃亡者、と非難した。
親族はことごとくカエサル派に回っている。公私ともども四面楚歌になり、キケロは悩み、苦しみ、絶望し、悔恨にかられる。
ブリンディシでカエサルを迎える。人ごみの中にキケロを見つけたカエサルは、カエサルの方から歩み寄り、数百メートルともに歩く。キケロの不安は吹っ飛んだ。
『カトー』を刊行し、小カトーの壮絶な自死を褒めたたえたが、カエサルの寛容路線には賛成している。カエサル派とポンペイウス派の仲の修復にいそしんだ。
なお、カエサルは『カトー』を発禁していない。『アンチ・カトー』と題した論文を発表し反論する方を選ぶ。
キケロの手紙が残っているのは、アッティクスが『キケロの書簡集』出版してくれたからだが、アッティクスも興味深い男である。
経済的に大成したが、政治とは一切かかわらなかった。誰とでも良好な関係を保つ。表面的には資金援助でしか関係をもっていないが、それも「融資」という形をとっているから、反対派からの非難をかわしていた。
『キケロの書簡集』では、キケロへの返信をすべて削除してしまったから、アッティクスが何を考えていたのかは分からない。
内乱時代に生まれながら、それに巻き込まれないように、じつに周到な配慮をして生き抜いた。
国家改造
ポンペイウスとカエサルの抗争は、「元老院体制派」と「反元老院体制派」の抗争だったが、そうであるならば、「内乱」はグラックス兄弟の問題提起から始まる。
数々の問題提起が行われ、いくつもの法案が成立したが、個別の政策では根本的な問題解決にならないのではないか、気づいてくる人も増える。
元老院主導の少数寡頭政による共和政体は、ルビコンからメッシーナ海峡までしか領有していなかったローマの統治に適していた。
しかし、ポエニ戦役を勝ち抜き、地中海世界を内包するようになれば、不都合が生じるのも当然である。
カエサルは、広大な領土の統治には、ローマ独特の共和政よりも、帝政のほうが適していると判断した。国家の意思決定を、元老院から皇帝に移行させること。
スッラによって300人から600人に増やされていた元老院議員は、カエサルによって900人に増やされた。増やした300人の多くは、属州に住むローマ市民、百人隊長、中北部のガリアの部族長まで加わった。
スッラの増員理由は元老院の強化だったが、カエサルのそれは元老院の弱体化であった。
ガイウス・グラックスの「センプローニウス法」も法案化した。いかなる罪でも、裁判なし、控訴権なしでの、刑実行は禁じられた。それによって、たびたびローマを混乱に落とし込んでいた「元老院最終勧告」という武器を、元老院から奪った。
帝国
ローマ覇権下の「ローマ世界」では、多民族で多宗教で使用言語も多い。古代人は「帝国」と呼んだ。
この「ローマ帝国」での、共通規範はローマ法、共通言語はギリシア語とラテン語だった。
「属州」が支配と服従、搾取される側の関係ではなく、単なる行政上の区画でしかなかった。そうでなければ、ラテン語の「属州」を意味する「プロヴァンス」と、南仏の人たちが自分たちの土地を呼ぶはずがない。
徴税請負人である「プブリカヌス」も廃止し、公営の徴税機関を設置した。
グラックス兄弟の父親が作った解放奴隷登用の法律を政策化した。もともとローマ人は奴隷がいなければ家庭がまわらない。寝食を共にしていてる奴隷の登用には賛成だった。
陪審員制度も見直した。元老院議員だけで構成されていたのでは判決の公正さは求められない。ゆえに、騎士階級を加え、平民階級を加えていたのだが、カエサルによって全廃された。
陪審員の資格は、40万セステルティウス以上の資産を持つローマ市民、と定められた。ゆえに、解放奴隷でも陪審員になれる。もはや、階級闘争でもなくなった。
帝政は、事実上なった。
あるとき、群衆の中からカエサルに”王”と呼びかける声があったが、
「私は王ではない、カエサルである」
と答えた。
カエサル自身は、一民族の長である王と、多民族をまとめる皇帝を区別していた。しかし、反対派は偽善的言辞として受け取った。
しかし、武将としては優れていても、政治家としては優れているとは言えなかったアントニウスが、軽率な行動に出る。カエサルに王冠を模した冠を捧げたのだ。
もちろんカエサルは拒否する。しかし、事の重大さは悟った。ローマ人は王政アレルギーなのである。