【読書】『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後[下]』13

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何のための殺害であったのか!

3月15日

 カエサルは、2年計画のパルティア遠征中の不在人事を、元老院に提示しなければならない。
 暗殺者側からすれば、カエサルのパルティア遠征が成功すれば、王位に就く障害は取り除かれる、はず。
 どちらにとっても、3月15日は最後の機会だった。
 暗殺は成功した。問題は、その後、だった。
 結果を先に言えば、カエサルどころかローマ世界を14年間も巻き込む混乱を招いたあげく、専制君主が替わっただけだった。
 「何のための殺害であったのか!」はキケロの言葉である。

担ぎ上げられたブルータス

 マルクス・ブルータス。父はマリウス派で、ポンペイウスに殺されている。
 学業に励み、軍務の経験はなかった。金融業に就くが、小アジアで48%の高利をむさぼり、キケロを憤慨させる。
 「内乱記」でポンペイウス派についたのは、元老院主導のローマ共和政を信じていたからだ。ポンペイウスは敗れたが、カエサルの愛人だった母セルヴィーリアの嘆願で助命される。
 広い知識と深い教養の持ち主で、キケロやアッティクスからも認められている。
 しかし、知識と教養が、知力と先見性に結びつかないことは、この時代の歴史を紐解くと痛感させられる。

真の首謀者カシウス

 カシウス・ロンジヌス。クラッススのパルティア遠征に従うが、500騎を率いて敵前逃亡する。500騎は「たかが」ではなく、戦局の行方を左右する数なのである。
 カシウスが離脱しなくても、敗北は避けられなかったろう。しかし、ローマ軍団が壊滅するまでの悲劇にもならなかっただろう。
 カエサルは生涯このことを許さなかった、少なくとも好意はもてなかった。カエサルの天下では自分の将来はない―――――と、カシウスは悟る。
 しかし、自分が首謀者になったのでは、誰もついてこない、と考えられる程度には現実認識能力はあった。
 私利私欲では誰もついてこない、大義名分が必要だった。神輿に選んだのはマルクス・ブルータス、だった。

ブルータスおまえもか

 デキムス・ブルータス。ガリア戦役時のカエサル配下の幕僚。
 カエサルは遺言状で、第一相続人が辞退した場合の相続人に、デキムス・ブルータスを指名していた。
 そのことを知らなかったデキムス・ブルータスは、遺言状が公表されると、顔色は土気色に変わり、沈黙に沈んだという。
 カエサルの発した「ブルータス、お前もか」の「ブルータス」は、マルクス・ブルータスではなくデキムス・ブルータスでったという史家は多い。
 ローマ市民とカエサルのベテラン兵の怒りも、デキムス・ブルータスに集中した。

キケロ

 キケロは暗殺には加わっていない。もう一度、国政の舵を握りたい、元老院主導のローマ政体を復活させたい、という思いは、反カエサル派とカエサル派の積極的な仲介となって現れる。
 しかし、キケロのその思いは。暗殺者グループの無能によって悲劇に変わる。
 キケロは元老院を招集するようにとブルータスらに進言をするが、市民の無反応におじけづいたブルータスらは、この提案を却下する。
 市民の無反応が怒りに変わり、それを利用したアントニウスと暗殺者側との妥協が成立する。カエサルの政治の継承である。
 デキムス・ブルータスを撃破したオクタヴィアヌスは「ペティウス法」を成立させる。カエサルを殺害したものを全員有罪とし、追放刑を決める。
 「処罰者名簿」が作成されると、筆頭にキケロが名指しされる。罪状は、思想上の指導者であったことだった。

アントニウス

 殺害後、アントニウスが政権を握れたのは、軍事的能力があったからだが、暗殺者グループの無能に助けられたからだ。
 カエサルの後継者になれるチャンスはあったのだが、ことごとく失敗した。箇条書きにして列記すると、

  • カエサルが遺言状で明記していた、市民たちへの遺贈金配布を実行しなかった。自分の軍団結成費用に充てたこと。
  • クレオパトラと結婚したこと。政略結婚だったが、アントニウスの姉と結婚していたにもかかわらず。
  • クレオパトラにオリエントの統治権を贈ったこと。
  • アルメニア遠征の講和条約で、アントニウスとクレオパトラに間に生まれた息子と、アルメニア王女との婚約を決めたこと。
  • アルメニア遠征成功の凱旋式をアレクサンドリアで挙行してしまったこと。

 アントニウスの失点は、そのままオクタヴィアヌスの得点につながっていた。
 ポンペイウスとの戦いでギリシアに向かったカエサルは、首都ローマをアントニウスに任せていた。しかし、アントニウスは失政ばかりだった。
 カエサルは、アントニウスの政治的能力の欠如を見限った。カエサルの見立てが正しかったことはアントニウス自身が証明したことになる。アントニウス自身は理解しなかったが。

 しかし、アントニウスは、パルティア遠征さえ成功すれば、すべてをひっくり返せると思っていた。
 パルティアも万全の状態ではなかった。しかし、学習することは知っていた。
 自慢の重装騎兵団が敗北を喫すると、戦術を変えた。弓主体の軽装騎兵に切り替え、ローマ軍の輜重部隊を襲い、物資略奪のゲリラ戦に切り替えた。
 パルティア軍の戦術に敗れたアントニウスだったが、クラッススではなかった。惨劇は繰り返されず、撤退には成功した。失ったのは「自信」だった。

オクタヴィアヌス

 カエサルから後継者に指名されたのは、18歳のオクタヴィアヌス。知らない者からすれば「オクタヴィアヌス、WHO?」であり、知っているものからすれば「オクタヴィアヌス、WHY?」だった。知名度も実績もない18歳、カエサルの後継者にされていることを自分自身も知らなかった。
 遺言状の内容を知ったオクタヴィアヌスはローマに向かう。カエサルの遺志を継ぐために。

 ローマに到着したオクタヴィアヌスは、カエサルの遺言状を実行に移す。まずは市民への遺贈金提供とカエサルを偲ぶ競技会の開催だった。しかし、アントニウスは、カエサルからの遺贈金をオクタヴィアヌスに渡さない。
 オクタヴィアヌスは、生前のカエサルと親しく、財力のある人に、資金援助を申し込む。遺贈金提供と競技会は実行される。カエサルの遺言の忠実な実行者に、市民もカエサル配下のベテラン兵士も、カエサルの後継者に忠誠を尽くす。

 オクタヴィアヌスに軍事的才能はなかったが、それを見込んでいたカエサルはアグリッパをつける。アグリッパの協力で、スペインで決起したポンペイウスの次男セクストゥスを撃破する。
 ある種の才能が欠如しているのなら、欠けている才能は代行できる者に協力を依頼すればよい。
 カエサルが直接教えたかどうかは不明だが、オクタヴィアヌスは理解した。教育とは、教わる側の資質も重要なのである。
 現時点では勝てない相手には、譲歩することも妥協することもいとわなかった。こうして「外交」というものを理解していくが、その面での協力者はマエケナスだった。
 知名度も実績もない18歳は、責任感、使命感、なにより、持続する意志を持っていた。

 上述したが、アントニウスの失敗は、すべてオクタヴィアヌスの有利に傾いていた。
 オクタヴィアヌスが巧妙だったのは、敵をアントニウスを篭絡したクレオパトラであると、信じ込ませたことだった。これでカエサルの後継者争いという個人間の闘争は、ローマとエジプトという国家間の戦争にすり替わった。
 前31年3月、オクタヴィアヌスはギリシアに渡る。
 迎え撃つアントニウス側では、アントニウス配下の将たちは陸上戦を主張したが、クレオパトラは海戦を主張した。さらに、海戦で敗れた場合の第二戦をエジプトでの迎撃とまで求める。
 作戦会議にまで口を出すようになったクレオパトラに嫌気がさした将官たちが兵を率いて逃亡する。アントニウスに弓を引く気になれないという将兵に、オクタヴィアヌスは気前よく本国への帰還を許していた。その話が伝わると、離脱者は激増した。
 前31年9月2日、アクティウムの海戦は、臨戦するだけでは満足せず、出陣までしていたクレオパトラが、恐怖に駆られて離脱する。それを見たアントニウスがクレオパトラを追う。置き去りにされたアントニウスの艦隊は降伏した。
 アントニウスはエジプトで自死する。アレクサンドリアで捕囚の身となったクレオパトラも自死を選ぶ。

 キケロが嘆いたように「何のための殺害であったのか!」というカエサル暗殺は、ローマ世界を14年間も混乱に陥れたばかりか、カエサルからオクタヴィアヌスに引き継がれただけだった。
 カエサル暗殺がなければ、混乱の14年がなかったかもしれない。
 しかし、オクタヴィアヌスは、14年かけて自らの地位を実力で不動のものとした。
 オクタヴィアヌスの基本方針は「パクス」(平和)を掲げる。「パクス・ロマーナ」の始まりである。