【君主論】市民の支持を取り付けろ【賢明な政治をせよ】
『君主論』第九章は「市民の支持によって得た君主権について」の考察である。
他の同朋市民の好意によって君主になるには、
非常な能力や幸運を必要とせず、むしろチャンスを利用する狡猾さが必要となるのだが、”狡猾さ”と言われると、なんだか微妙なものがある。
それはともかく、都市には「貴族 VS 民衆」の対立があるがために、君主政・共和制・無秩序が生まれる。
マキアヴェッリは、いずれの場合でも、「民衆の支持を取り付けろ」と主張する。
それは、賢明な政治をするためでる。
貴族についての考察
・貴族の支持を取り付けても、貴族をコントロールできない
・貴族は民衆より公正ではない
・貴族は民衆を抑圧しようとする
・民衆より貴族のほうが数が少ない
・貴族は反抗する可能性がある
とか何とかいうが、
貴族は先見の明に秀れ、しかも狡猾で、常に変節の機会を狙っており、勝目のある人の好意を得ようとするとか、野心をもつ貴族は、
彼らはあなたが逆境に陥った場合、その破滅を助けるとか、まあ、さんざんな言いようである。
こんなこと言うから、マキアヴェッリは人気がなかったのだろう。ここだけ読んだら貴族に嫌われる。
とはいっても、君主になれば、貴族を作ったり取りつぶしたり、権威を与えたり奪ったりすることができる。
マキアヴェッリに言わせれば、
小心で生来、勇気を欠く者の場合、思慮を持つ者については最大限活用しなければならない。何故ならば、順境の時には彼らは名誉をもたらすし、逆境の時には恐れる必要がないからである。という例外はあるのだが。
民衆の支持を取り付けろ!
上で書いたことを裏返してみよう。
・民衆は貴族より公正である
・民衆は抑圧されたくないだけである
・民衆のほうが、貴族より多い
・民衆を敵にしても、見捨てられるだけである
かくして、
君主は民衆を味方にすることが必要であり、さもなければ逆境にあって施す術がないと結論づける。
「民衆に基礎を置くのは、泥土の上に基礎を置くようなものである」といった陳腐な格言を引き合いに出して私のこうした意見に反論するのはやめた方がよい。そんな格言あったのか?
それはともかく、貴族より民衆のほうが純粋な欲求で君主を求めている。
それだったら、民衆の支持を基盤に置いた方が、純粋な統治が可能である。
賢明な政治をせよ
第九章の締めくくりは、
賢明な君主は市民達が常にどのような時勢の下でも、君主権と彼らが必要であると思うような方策を考案しなければならない。そうすれば彼らは常に君主に対して忠実であろう。である。
「賢明な政治をせよ」ということである。そうすれば、市民は裏切らない。
考えてみれば、不正を行い、他人を抑圧し、数は少なく、いつ裏切るか分からず、隙あらば攻撃を仕掛けてくる、そんな貴族を「味方」として信用していいものだろうか?
この場合の「賢明」は、相当なレベルを求められる。
一方、公正さを求め、抑圧から解放されることを望み、数は多く、こちらが妙なことをしない限り裏切ることはない、民衆のほうが「味方」として信用できる。
この場合の「賢明」は、「平穏無事な政治」であればいい。
もっとも、「平穏無事」ということだけでも困難である。それができれば誰も苦労はしないのだが。
とはいえここに、「貴族を何とかせよ」という別の問題を抱えてしまえば、困難さが増すだけである。
だったらはじめから、別の問題を抱えなくてもいいようにするのが「賢明」である。
となると、別の問題を片付けておくために、はじめから民衆の支持を取り付けた方が「賢明」というものである。
それゆえ、マキアヴェッリは「民衆の支持を取り付けろ」と主張するのである。