【君主論】偽善者のススメ

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 『君主論』第一八章は「君主は信義をどのように守るべきか」

経験によれば、信義のことなどまったく眼中になく、狡知によって人々の頭脳を欺くことを知っていた君主はこそが今日偉業を成している。そして結局信義に依拠した君主たちに打ち勝ったのである。
 要するに、
「信義を守る必要はない」
 なんてこと言うんだマキアヴェッリ!
 こういうことを言うから、「マキアヴェッリ=非道徳」というレッテルを貼られることになる。

邪悪な人間が存在する

 もし人間がすべて善人であるならば、このような勧告は好ましくないであろうが、人間は邪悪で君主に対する信義を守らないのであるから、君主もまたそれを守る必要はない。そして君主は信義を守らないことを潤色する正当な口実を必ずや見いだすものである。

 ”もし人間がすべて善人であるならば、このような勧告は好ましくないであろう”の一文である。
 誰が邪悪な人間との信義を守るだろうか?
 マキアヴェッリと言えども、民衆の目的は公正で(第9章)、臣民の財産や婦女子を奪ってはならない(第19章)と言っている。
 善人との信義は守らなければならない。
 問題は、理を理解せず、邪悪な人間が存在してしまうことなのだ。

偽善者であれ

 マキアヴェッリが考える人間の闘争方法は、人間固有の「法」による方法と、野獣の「力」による方法、である。
 さらに、野獣の方法は「獅子」と「狐」に分けられる。
 平和を破壊する、君主権を奪う、それが暴力による方法だけなら簡単なのだが、そうならないのが人間社会複雑さ。
 「奸智」に長けた人間は存在する。そして、その「奸智」を見破らなければならない。

賢明な君主は信義を守るのが自らにとって不都合で、約束をした際の根拠が失われたような場合、信義を守ることができないし、守るべきではない。
狐の性質をよく心得てそれを巧みに潤色し、秀れた偽善者、偽装者たることが必要である。人間というものは非常に単純で目先の必要によってはなはだ左右されるので、人間を欺こうとする人は欺かれる人間を常に見いだすものである。
 問題なのは、「奸智」対策だったはずなのに、それが相手に口実を与えることになってはならないこと―――――めんどくさいんだけど。
君主がこれらの資質を具え、それに従って行動するのは有害であるが、それを具えているように見えるのは有益である。
・慈悲深さ
・信義に厚い
・人間性に富む
・正直
・信心深い
君主は上に述べた五つの資質に欠けるような言葉を決して口に出さぬように充分に注意し、自らが慈悲、信義、誠実、人間性、敬虔の権化であるよう充分に心配りをしなければならない。
 要するに、「偽善者であれ」

具体例

アレクサンデル六世

彼ほど約束の実効性を強調し、大げさな宣言をしてそれを確認し、しかもそれを守らなかった人間は他に見当たらない。
イスパニア王フェルナンド
現代のある君主――その名を挙げるのは差し控えるが――は、平和と信義以外を唱えなかったが、実際には両者の不倶戴天の敵であった。もし彼がこの二つを忠実に守っていたならば、幾度となく名声を権力とを失ったことであろう。
 マキアヴェッリはこの二人を「具体例」として挙げている。
 僕がおすすめするのは、アレクサンデル六世で、『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』に詳しい。

 イタリアに侵入したフランス王・シャルル八世のあしらい方。
 「良く思いついたなぁ」と笑ってしまうから。