【読書】『昨日までの世界』(上)②【トラブル解決の比較と考察】

読書ジャレド・ダイアモンド,読書,昨日までの世界

 パプアニューギニアで発生した交通事故である。
 ミニバスの後方から飛び出したビリー少年が、マロという男の運転する車にはねられた、というものである。
 なお、マロは地元の会社に雇われていたドライバーである。
 この事故は、ヤギーンという人物が仲介して、被害者と加害者の間に立って交渉した。
 五日後に、マロの上司ギデオンがビリー少年の遺族のもとに訪問し、謝罪の言葉を述べ、食料を贈り、遺族とともに悲しみを共有する儀式を行うことで、和解している。
 ちなみに、ニューギニア政府の対応は、数カ月ほどたった2回目の出頭の時にマロの免許を取り消す。そして、2年半後の審理予定日に、ようやく裁判が始まったと思ったら、検察側検証人である警察官が出頭せず、判事が公訴棄却。そこで終了である。

 伝統的社会の中には、人々が国家政府の正当な司法制度の枠外で実質的に生活している社会がある。
 そのような社会では、独自の伝統的方法で正義を行い、諍いを平和裡に解決している。
 とはいえ、平和裡の解決ができなければ、武力衝突の応酬が繰り返し、すなわち「戦争」になる。

 人類は有史以前、すでにこのような伝統的方法で紛争を解決していたのではないかと思われる。和解か戦争かによって。
 ここではトラブルの平和裡の解決方法、すなわち「和解」の比較考察を行う。

たった数日で和解している

現代社会の司法制度は時間がかかる

 現代社会の民事裁判だと、判決まで時間がかかる。
 離婚調停がまとまらず、裁判まで進んでしまうと、両親の板挟みになる子どもたちが苦しむことになる。

 また、カネにモノをいわせて裁判を長期化させ、資力の乏しいものを経済的に疲弊させ、訴訟を撤回させる、という事例もある。
 カネにモノをいわせて、有能な弁護士を雇い、裁判を長期化させ、金持ちに有利な条件で和解にもちこむ、という事例もある。
 日本の具体例を出してしまうと客観的な分析がしにくくなる(平和主義者の私でも怒りがわく)ので挙げないが、アメリカでもそうなのかと思うと、これは現代社会の問題点である。

 対して、ビリーとマロの交通事故は、不運な事故であったが、たった数日で和解している。

人間関係

 訴訟に進んだ場合、一生、人間関係がこじれたままになってしまうという話も、一つや二つではない。
 現代社会の司法制度は、個人間の感情対立に配慮しないていないのである。
 司法制度が個人の感情にまで踏み込むのは、国民総過保護主義であり、個人の自由への脅威である、という主張もある。
 しかし、人間関係がこじれたままというのも問題がある。

 現代社会と伝統的社会の人間関係の相違もある。
 伝統的社会では、まったく見知らぬ他人に遭遇する確率が極めて低い。何らかの形で誰かと誰かにつながりがある社会である。
 和解が成立せず、人間関係にヒビが入ると、報復に対する報復の連鎖につながりやすい。
 それが武力衝突の繰り返しにつながり、やがて戦争に発展する。
 そのため、現代社会と異なり、個人間の感情対立の解消に主眼が置かれている。
 敵対感情の解消に主眼が置かれ、善悪の判断は曖昧である。
 ブタの所有権問題にまつわるエトセトラを読んでいると、兄弟げんかかと思うと笑ってしまうが、伝統的社会に住む人々にとっては、善悪の問題よりも、人間関係の修復のほうが重要なのである。

現代社会の目的は、社会の安定

注意喚起

 死角から飛び出してきた人をはねてしまう事故が多いから気を付けるように、という話は免許更新時に聞かされる。
 ちなみに、直近の免許更新時の話で私が聞いたのは、死角から飛び出してくるのはバイクが多いそうだ。
 「だろう運転」はやめましょう。皆さま、厳重警戒を。
 現代社会の司法制度のメリットを挙げると、「こういう事故があるから気を付けよう」という事例が、注意喚起を促し、事故を未然に防止できることである。
 消防署は消火活動より、防火活動に力を入れている。警察官も事故を未然に防ぐように仕事をしている。
 ビリー少年とマロの事故の場合では、関係者以外はこの件からの教訓が得られないのがデメリットである。

罪と罰

 また、現代社会の刑事司法の目的は、社会の安定である。法律に反する犯罪を罰することにより、紛争を解決させることにある。
 犠牲者の損害を賠償するのが目的でもなければ、それを意図しているのでもない。ゆえに、民事司法と刑事司法は別個になっている。
 一般に、刑罰の意義には、犯罪の再犯の抑止、犯罪行為に対する応酬・懲罰、そして犯罪者の教育と更生の三つが考えられるが、どの点が強調されるかはその国の司法制度によって異なる。
 また、民事でも、損害額の算定や賠償の金額が争論される。
 いずれの場合でも、被害者感情のケアや、紛争の当事者間の人間関係修復にまで、国家は介入しない。

 とはいえ、国家社会の司法制度にはメリットがある。
 一つ目は、報復抑止の効果である。
 現代社会では報復の権限を国家に移譲することにより、報復の連鎖を未然に防いでいる。
 二つ目は、国家社会の司法システムは、理論上、平等である。
 カネの力にモノをいわせて・・・・・という話は上述した。
 しかし、伝統的社会、小規模社会では当事者間の武力関係が優先され、通常、弱者は守られない。
 なお、カネの力のモノをいわせるような方法は、IT化の進展で解決されるのではないかと推測している。理由は助長になるので割愛する。
 三つ目は、法律に照らして行為の善悪を明確に判断し、犯罪者に刑罰を科し、民事上の責任所在を明確にし、一般の人が犯罪を働かせないように抑止するということである。

現代社会の司法制度について考える

修復的司法

 現代社会において、刑事事件の被害者やその遺族、死刑に処されなかった犯罪者の、感情面での終結を得る方法はあるのか?
 この問いに対する答えの一つとして有望視されているのが、「修復的司法」である。
 犯罪者は自身の犯行の動機について語り、被害者は事件が自分の人生に与えた影響について語る。
 被害者は、犯罪者を生身の人間と捉え、この人も理解不能の怪物ではなかったのだ、この人もそれなりの人生があり、それなりの動機があったのだ、と慮ることができる。
 犯罪者は、この話し合いの過程を通じて、自分のこれまでの人生の点と点とを結びつけ、過去に何があって自分が犯罪の世界に足を踏み入れることになったのかを理解できるかもしれない。
 修復的司法について参考になるのは、ニューギニアを含めた伝統的社会の考え方であろう。
 彼らは人間関係の修復に力を入れている。
 多くの伝統的社会においてみられる方法や手段の中には、国家社会のシステムにうまく取り込めば有効に機能し、社会に益をもたらす可能性があるものも存在することは確かである。

 とはいえ、修復的司法ですべてが解決できるわけではない。
 弱者を狙った卑劣な犯罪や、凶悪な犯罪が起きている。その加害者は厳罰に処せられるべきであり、それをもって犯罪を抑止しようという現代社会の司法制度に異論はない。
 しかし、罰則の強化が犯罪の抑止につながっているかどうかは、疑問の余地がある。
 また、卑劣な犯罪や凶悪な犯罪の加害者に、教育や更生の余地があるかという疑問もある。私も懐疑的である。
 しかし、どこからが卑劣で凶悪かという議論は難しい。あとあと背景を知ると、同情の余地がある事件である場合があるからだ。
 『韓非子』流に言えば、罪と罰が対応するようにせよということになり、私もそう考えている。
 しかし、社会によっても人によっても、考え方が異なる。時代によっても移り変わっていく。どのような種類の犯罪で、どのくらいの被害だと、どの処罰が望ましいのか、それも変わりつづけていくのだろう。
 そして、その議論は永遠の課題となる。

国家司法に不信を持たれてはならない

 1984年12月22日、ニューヨークの地下鉄で、バーナード・ゲッツを4人の若者が取り囲んだ。彼らに恐喝されると思ったゲッツは、拳銃を発砲した。
 この事件で大論争が起こる。
 犯罪者に対して自力で対抗したゲッツの勇気を褒めたたえる人々がいる。他方、過剰防衛であると批判する人々もいる。
 のちのち明らかにされた事実は、この事件から4年前にゲッツは3人組の若い男から暴力を受けていた。その加害者の男の一人が悪知恵を働かせ、自分のほうこそゲッツに襲われた被害者だと逆に訴え、裁判所が両者に和解を勧告していた。
 この一件でゲッツは司法制度への信頼を失い、拳銃を購入し、護身用に携帯していたのである。

 われわれが最も怖れなければならないことは、国家司法に対して不信を持たれることである。
 個人が個人で正義を果たすようになり、報復に対する報復という連鎖が止まらなくなれば、武力衝突の連続につながる。
 そうなっては平和な社会など、とうてい無理な話になる。

 現代社会も、伝統的社会も、「どうすれば社会がよりよくなるか?」という実験を行ってきた結果、今に至る。
 そこには様々な方法がある。
 その様々な方法から判明する叡智を取り入れることができれば、現代社会も、伝統的社会も、よりよい社会になることができる。