【読書】『昨日までの世界』[上]③【復讐の連鎖を止める】

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効率と死亡率

 伝統的社会の戦闘は、現代戦の基準から言えば、効率が悪い。
 原因として、近射程兵器しか使えない、リーダーシップの欠如、戦闘計画の稚拙さ、集団軍事訓練の不在、一斉攻撃戦法の不在などなど。
 ようするに、どちらの側も「武器もなければ、戦略もない」状態なのである。
 しかし、総人口に対する戦死者の割合を計算すると、現代戦よりも伝統的戦闘のほうがはるかに高い。
 現代戦に比べ伝統的戦闘は、効率が悪いのに死亡率は高い、という奇妙なことが起きる。

 現代戦では、通常、兵士と兵士が戦闘を行う。
 また、戦争締結後に相手の市民を利用することを考え、戦略目標から除外する。
 ゆえに、死傷者は戦闘員がほとんどで、一般市民が巻き込まれても限定的である。

 伝統的戦闘、俗にいうところの部族戦争は、異部族間戦争ではなく、実際は部族内戦争であって、言語と文化を共有する同一部族の人々が敵味方の二手に分かれて戦う場合がほとんどである。
 敵味方のアイデンティティが類似しているにもかかわらず、相手側の人間を非人道的な悪魔のように見なしたりする。
 そのため攻撃対象は、戦いが専門の成人男性の一部だけではなく、非戦闘員である女性や子供も巻き込まれる。
 そして、慢性的に戦闘状態が続くため、その影響が人々の行動に影を落としている。

 戦闘員のみならず非戦闘員まで巻き込まれること。
 開戦から終戦までを誰もコントロールできず、慢性的に戦闘状態が続くこと。
 現代戦に比べて伝統的戦闘は、効率が悪いのに死亡率は高いのは、この2つが理由による。

 ファーストコンタクトが起きた後、伝統的社会の戦闘が、激化するか終結するかは、短期的にはまちまちである。
 意外なところでは、ニュージーランドにおいては、ジャガイモの持ち込みが部族間戦争を激化させた。
 ニュージーランドのサツマイモより、ヨーロッパ人の持ち込んだ南米原産のジャガイモのほうが生産性が高く、戦闘糧食が増加し、遠征期間も遠征頻度も拡大したからである。食糧供給の増加が戦闘を激化させるという皮肉な結果をもたらした。
 しかし、長期的にみれば、要因はさまざまだが、部族間戦争は終結する。
 異論はあるだろう。すべてがそうだとは言わない。しかし、植民地政府は、部族戦争を終結させ、平和をもたらした。
 ゆえに、伝統的社会の人々は植民地政府のメリットを高く評価する。、

心理的負担

 上述したが、伝統的社会では敵対する部族のことを悪魔のごとく呪い、恨む。
 敵は殺してもかまわないと教育され、場合によっては殺し方まで教わっている。
 したがって、戦闘で相手を殺すことに心理的負担がない。

 一方、現代社会では子どものころから人を傷つけるな、と教えられている。
 にもかかわらず、戦争が始まるや否や、武器を渡され、相手を殺して来いと命じられる。その矛盾した命令が心に影を落とす。
 また、現代戦では、戦争が始まっても、条約締結で戦闘は終結する。
 そのことも心に影を落とす。自分の肉親や友人、仲間が殺された、というのにもかかわらず、戦闘行為をやめなければならない。

 国家社会で暮らす人々と伝統的社会で暮らす人々との決定的な違いは、国家社会は宣戦布告と同時に敵を殺してくるように命じられ、平和条約締結と同時にそれを放棄するように命じられる点である。
 この結果、人々の心に残るのは心理的混乱である。
 現代の兵士の中に、戦場で敵に銃口を向けて発砲できない兵士が大勢いると聞かされても、まったく不思議に思えない。
 その後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になってしまう、苦しい思いをする者も多いのも、当然だ。
 戦争締結後も、憎悪の感情に苦しむことになる。憎悪の感情は、そう簡単に消え失せるものではない。

実際の復讐以外の方法を

 人間が生得的に、遺伝的に、好戦的であるか非好戦的かの議論は無益である。
 人間社会はどれも暴力的であり、どれも協調的であり、どちらが際立つかは外部的な要因による。
 今現在が、非暴力的であり、協調的であり、要するに平和であるのなら、それは先代の努力の賜物である。
 平和な社会を享受しているのなら、自分自身や、次の世代のために、自分自身が平和を享受できるように努力しなければならない。

 それでは、なぜ戦争が始まるのか?
 伝統的戦争の動機は「報復」が最も一般的な答えである。ちなみに、ニューギニアでは「女性」と「豚」という答えが一般的である。
 大規模な国家社会の間では、今日、このような動機で戦争が仕掛けられることはない。土地の所有をめぐる争いが多い。
 しかし、報復・豚・土地が原因で紛争が起きたとしても、それが必ずしも戦争につながるわけではない。しかも、好戦的な社会においてさえ、最初は紛争を平和裡におさめるべく努力をする。

 日本人には耳の痛い話だが、1941年、日本が真珠湾を攻撃してから、アメリカ人は日本への敵対心、復讐心をもつようになる。
 しかし、4年もたたないうちに戦争は終結し、今度は日本人を憎むことをやめるように命じられている。
 伝統的社会の人々は、4年どころではなく、何十年もかけてそのように行動するよう教え込まれ、実際に強烈な経験をしてきた。
 そのことを知っていたからこそ、部族間戦争を締結し、平和を樹立した植民地政府を、高く評価するのである。

 人間には、誰しも大切に思うものがあり、守りたい仲間がいて、守りたい社会がある。
 ゆえに、それが傷つけられるとなると、怒りがわく。実際に被害を被れば、復讐したいという思いに駆られるのも自然な感情である。
 復讐心は、人を愛する気持ち、怒りの気持ち、悲しみの気持ち、恐怖心などといった、その他人間感情と同列の存在の感情であり、人にはつきものの感情なのである。
 しかし、現代の国家社会では復讐の渇望は禁じられ、それを果たすことがないようにしむけられている。
 国家が十分に対応した場合でも、それが不当な対応であるとの思いに駆られてしまえば、個人としては国家の対応に納得がいかず、精神的な苦痛をいつまでも引きずりつづけることになる。

 現代社会では、国家権力に処罰権の独占を認めることによって、復讐の連鎖を防止し、平和で安全な社会で暮らすことができる。
 しかし、この平和と安全は、個人個人の大きな代償の上に成り立っている。
 復讐心に駆られての行動はよくない。
 しかし、復讐を果たしたいという気持ちがあることは容認されるべきだろうし、抑圧されるべきでもないだろう。

復讐の渇望はよいものではない。しかし、無視できるものでもない。我々は復讐心が存在することを理解し、その存在を認めるべきである。そして、復讐したい気持ちを表出するべきである―――ただし、実際の復讐以外の方法で。
 口で言うのは容易い。しかし、実際に復讐心を持ってしまったらどうであろう。
 それでも、実際の復讐以外の方法を見つけなければならない。
 そうでなければ、社会の平和も、自分や自分の所属するコミュニティの平和も守られない。