【読書】『昨日までの世界』[上]④【子どもは社会の宝である】

読書ジャレド・ダイアモンド,読書,昨日までの世界

 『昨日までの世界』を読む場合の決まり文句のようになっているが、現代国家社会のほうが、伝統的社会より優れているとは限らない。
 逆も同様である。

 子育てについても同様である。

 当然のことながら、子育てを「実験」することはできない。
 実験できないがゆえに、付きまとうのが、「悩み」である。
 正解が分からない。ゆえに悩む。
 我々にできることといえば、異なるライフスタイルの集団の習慣を比較考察し、そこから推論を得ることだけである。

 狩猟採集社会の子育て法のなかに、見習うに値するものもあり得る。
 我々から見れば異質に感じる狩猟採集民の育児は、それほど破壊的に展開するような育児ではない。
 当然ながら、狩猟採集民の子育てすべてを見習うべきである、というわけでもない。どう考えてもマネしたくないような習慣もある。
 しかし、狩猟採集民の子育て法も、長きにわたって継続されてきた実験である。その実験結果には、真摯に受け止め、検討する価値がある。

WEIRD

 ドイツ、アメリカ、日本、中国といった国々は、一見、全く異なるライフスタイルを送っているようにみえるが、人間の幅広い文化的多様性の中の非典型的な例である。
 小児科医、児童心理学者などといった専門家はWEIRDと呼ぶ。
西洋的で(Western)、
教育が普及していて(Educated)、
産業化されていて(Industrial)、
富める(Rich)、
民主的な(Democratic)
様態の社会の研究結果に重きを置く形で、人間の子どもの一般性を探求している。
 たとえば、フロイトは何かにつけて性的欲動と性的欲求不満を持ち出すが、そのような精神分析学的なアプローチで、伝統的社会をうまく説明することはできない。
 なぜかといえば、伝統的社会というところは、性行為の相手はいつでもたいていみつけられるが、だれもがいつでも空腹感を味わっていて、食欲の欲求不満に悩まされている社会だからである。

 しかし、そうではない社会と比較すれば、WEIRDと呼ばれる形態の社会は、狭い振り幅の子育ての慣習のなかにある。
 ライフスタイルが大きく異なる集団を比較することができれば、別の見方も、またヒントも見えてくる。

泣く子どもへの対応

 子どもが泣きじゃくるとき、親はいかに対応すべきか?
 興味深い観察結果がある。
 エフェ・ピグミー族の社会では、赤ん坊がぐずり始めると10秒以内に母親がなだめるか、誰かほかの他人がなだめる。
 クン族の場合は、赤ん坊の体にそっと触れたり、授乳したりするといった対応が3秒以内に88パーセントであり、10秒以内になれば100パーセントになる。
 この素早い対応の結果、クン族の赤ん坊は1時間あたり「のべ」1分ほどしか泣いておらず、しかも1回当たりの泣き時間は10秒にも満たない。
 1時間あたりの「のべ」泣き時間(トータル泣き時間)はオランダ人の赤ん坊の半分以下である。
 多くの研究で、泣いても無視される一歳児は、泣いたらすぐに対応してもらえる一歳児よりも、多くの時間を泣いて過ごすという結果が報告されている。

 近代国家社会では―――――とはいっても、国によっても世代によっても考え方は異なるが―――――「理由もなく」泣いている子どもは放っておくべきと考える。
 子育てにおいて、親の都合で考えるのは悪い考え方かもしれない。
 しかし、泣きじゃくる「のべ」時間(トータル時間)を考えるのであれば、すぐに対応したほうがいいのかもしれない。

 近代社会の傾向として、母乳育児の割合は減少傾向にあり、子どもたちの離乳時期も早くなっている。
 定住性の農耕社会や、農耕民と取引をする狩猟採集社会でも、母乳育児は短縮される。
 理由の一つは、離乳食が入手できるからである。
 離乳食が手に入らない移動性の狩猟採集社会では、自動的に授乳期間が長くなる。
 出産の間隔が長いクン族の場合、母乳育児が数年にわたる。
 子どもの立場からすれば、数年にわたって母親を独占できることになる。それが、ある日突然、終止符を打つ(次の子どもが生まれるなど)。結果、離乳後に強烈なトラウマに襲われる。
 また、離乳年齢が高いため、離乳の際の辛かった思い出を70歳過ぎてからも思い出せる人もいる。
 こうなると、授乳期間が長いほうがいいのか短いほうがいいのか、どの時期で、というのが分からなくなってくる。

 寒冷な地域の伝統的社会では、ゆりかご板にぐるぐる巻きに固定し、防寒対策と手足の自由を制限してゆっくり休ませる、という安眠対策をとっている。
 現代社会において我々が、ゆりかご板に固定されるとか、ぐるぐる巻きにされるとか、いわれると嫌悪感を覚える。
 しかし、寒冷な地域の伝統的社会では、防寒のための仕方のない慣習である。
 とはいっても、そのような伝統的社会で育てられた乳幼児の、人格心理学的な側面でも、運動能力の側面でも、いずれも全く差異が認められない。
 ハイハイをしだすころには、日中の半分以上はゆりかご板以外の場所で過ごしている。また、眠っているとき以外は、ゆりかご板に固定されていない。
 それよりも重要なことは、ゆりかご板で育つ赤ん坊は、つねに母親の近くにいることができ、母親と一緒にどこへでも行ける。
 一方、典型的な西洋の子どもは、社会的な交流が可能な環境から孤立した空間で過ごす時間が多い。

 岡田尊司さんは、親が子どもの「安全基地」になれるかどうかが重要であると述べている(参照:『愛着障害』)。
 現代社会と伝統的社会を比べてみると、物理的な慣習よりも、心理的な慣習のほうが極めて重要であることが確認できる。

14歳の母でも自信たっぷりに子育て

 ニューギニアの奥地のモーシーという少女が、14歳ですでに結婚し、一児の母親になっていたそうである。
 はじめの疑問は、モーシーの年齢の数え方に間違いがあったのではないか、ということであった。しかし、そこに間違いはなかった。

 次の疑問は、モーシーが自信たっぷりに子育てをしていたことだ。
 この疑問の解答は、伝統的社会と現代社会の差異、というより大規模社会と小規模社会の差異である。

 大規模社会では、遊びでも教育でも、同年齢主義が採られやすい。そのほうが効率的だからである。
 しかし、小規模社会ではそうはいかない。現代国家社会でも、都心部では同年齢主義が採られるが、子どもの学習教育が教室ひとつで済むぐらいの規模になると、異年齢での学習形態や遊戯形態が採られる。
 これは年長の子どもにも年少の子どもにも、双方にメリットをもたらす。
 年少の子どもは、大人ばかりでなく、年長の子どもとの接触でも社会性を養うことができる。
 年長の子どもは年少の子どもとの接触を通じて、子どもの世話の実体験を学習できる。
 この体験が、自分自身が親になった時にモノをいう。

 現代の西洋社会では一般に、子どもの両親が子どもの養育における中心的な貢献者であり、生物学的な親以外の人間が子どもの世話をやいたり、面倒を見たりする養育スタイルは、ここ数十年減少傾向にある。
 小規模社会では、子どもの養育に親以外の人々が関与し、子育ての責任を社会で広く分担している。

 アメリカのソーシャルワーカーたちの指摘であるが、母親としての経験不足や育児放棄が疑われている低所得の一〇代の未婚女性の子育てにおいても、祖母や年長の兄弟が一緒に暮らす拡大家族の一員として同居できる環境が存在すると、赤ん坊の発育が早まり、認知能力の発達もみられる。
 同じ効果は、子育てが専門の大学生が定期的に家庭訪問し、赤ん坊と遊んでやる、というような簡単なことでも見られる。
 問題がある親に育てられながらも、社会的にも認知的にも立派な大人に成長したというエピソードはいくつもある。
 そして、彼らの言によれば、彼らが正常な神経でいられたのは、自分を定期的に訪問してくれる親以外の大人がいて、その人が味方になってくれたからだそうである。

 自分自身が親になった時、どうするか?
 不安を抱えて当然だろう。
 最初の子どもが初めて体験する育児体験で、そして、失敗は許されない―――――
―――――などといったら、プレッシャーでしかない。不安になって当たり前だ。
 自分自身が親になった時に、「幼児の世話をしたことがある」という体験があるのなら、不安は相当に解消できる。
 現代国家社会の義務教育のなかに「育児体験」を入れるというのもムリな話だ。個人で「育児体験」をできる機会を探すしかない。

 社会で子育ての役割分担ができる、関与もできるとなれば、実の親のプレッシャーも減らせるだろう。負担も減らせる。

 何よりも重要なのは「子どもは社会の宝である」というメッセージを、皆で共有できることである。

 同年齢主義が悪いとまでは言わない。
 しかし、どこかで年の離れた子どもたち同士が学習したり、遊んだりする機会を取り入れたほうがいい。
 子どものためにも、自分自身のためにも。