【読書】『昨日までの世界』[下]⑦【危険とリスク対策】
クン族のコマという男とは、自分の狩りの獲物に群がるライオンやハイエナたちを平気で追い払える男でもある。しかし、車が走る道路を横断する際には恐怖に震える。
ニューギニアのザビーネは、野生の豚やワニを目にしたときでも、身の危険を冷静に判断できる男である。しかし車が走る道路の場合は、コマと同様である。
どの社会においても危険と無縁ではないが、社会ごとに特異な危険が異なる。
平均寿命の差から判断して、伝統的社会よりも現代社会のほうが危険度が低いと言えないこともない。
定住化したニューギニア人は「米はあるし、蚊もいない!」と言ったそうだが、その言葉が象徴している。
しかしながら、危険度が低い、あるいは事故に遭っても一命をとりとめる可能性が高い現代社会に住むわれわれは、危険というものを現実に即して判断していない。
一般に、自動車よりも核兵器のほうに危険を感じるが、犠牲者は交通事故のほうがはるかに多い。
また、遺伝子工学やスプレー缶の危険性を恐れる前に、喫煙の危険性やヘルメットなしに自転車に乗る危険性に目を向けたほうがいいのである。
伝統的社会に住む人々の危険に対する考え方、対処の仕方を学べば、何が危険であるかについて、もっと現実に即してバランスの取れた考え方を持てるようになるだろう。
伝統的社会における危険とは
伝統的社会の人々が直面する危険は、環境上の危険、人の暴力行為の危険、感染症と寄生虫疾患の危険、飢餓の危険の4つである。
伝統的社会の事故死の主要な要因は、現代社会では主要な要因にはならない。
理由の一つは、現代社会のほうが環境をはるかにコントロールし、危険を回避しているからである。
もうひとつは、現代医学のおかげで、事故に遭っても治療によって命が助かる可能性が高く、障害が残る可能性も低いのである。
伝統的社会の人々は、食料採集や農耕作業に出ているときに事故に遭遇する可能性が多いものである。
したがって、出かけなければ大半の事故は回避できる。しかし、それでは水も食料も手に入らない。
「打たないシュートはミスがない。しかし、100パーセント入らない」
というアイスホッケーの表現以上に、伝統的社会の人びとは、リスクとメリットを天秤にかけ、バランスの取れた判断を下さなければならないのである。
飢餓
食糧不足の悪影響は、カロリーの摂取不足にとどまらない。ビタミンの摂取にも影響する。
特定の栄養素やビタミン、ミネラルの摂取不足は、狩猟採集民より農耕民に多く見られる。狩猟採集民のほうが農耕民よりも様々な食べ物を食べ、栄養素の摂取が多様だからである。
食料を一世帯だけで食べてしまうことはまずない。食糧はつねに生活集団の人々、あるいは最大30人の小規模血縁集団の人々の間で分け合われる。
食べられる時に食べて太っておく方法は、体に脂肪をため込む方法である。この方法であれば、食料が腐ったり、敵に襲われて奪われる心配もない。
食料を生産する場所を分散させる
食料を一か所で生産せずに複数の土地に分散させる方法も、予想可能な食料不足への対策としてよく用いられる。
ニューギニア人の畑の開墾作業は、かけ離れた逆方向にある場所で行われる。
移動に時間がかかるという非効率が発生し、畑泥棒や畑荒らしの野豚の見回りも困難にしている。
「一か所にまとめたほうがいいのでは?」
という素朴な疑問に解答を与えてくれたのは、キャロル・ゴーランドさんである。
研究結果は次のようになる。
農地の収穫量は、飛び地ごとに異なり、年ごとにも異なる。そして、この変動を環境的な観点から予測することは不可能だった。
伝統的社会の人びとが、なにがなんでも避けなければならないのは、農作物の収穫がままならず、一家が餓死に瀕するという事態である。
彼らが目標にするのは
「時間平均の収穫量を最高にすること」
ではなく
「餓死しない程度の収穫量を確保すること」
なのである。
複数の土地に分散させて作物を栽培することで、最低収穫量を確保していたのだ。
農地が分散化すればするほど、時間平均の収穫量は減少するが、年間収穫量が飢餓水準以下に落ち込む可能性も減少した。
伝統的社会に住む人々は、統計学や数理学な分析をせずに、長年の経験から、餓死のリスクを回避する方法を編み出していたのである。
この方法で、現代社会に住むわれわれが享受しているのが、投資信託である。
投資の運用収益に生活が依存しているのであれば、採用すべき戦略は小作農の戦略―――――たとえ時間平均の投資収益が低くなろうとも、年間収益が生活維持に必要なレベルを常に上回ような投資をしなければならないのである。
食習慣を広げる
いろいろな種類の食材を食すようにすることもまた、食料供給の季節的な変動への対応戦略として用いられる方法である。
クン族の食の好みの格付けは現代の先進諸国の人々と無関係だと思った方は、第二次大戦中の食糧不足の時代に多くのヨーロッパ人がどんなものを食べて、飢えをしのいでいたかに思いをめぐらせていただきたい。
集合と分散
伝統的社会が季節的な食料不足の問題に対応するためのもうひとつの方法は、人々がある周期で、一年のある期間、分散して生活したり、皆で集まって生活するという方法である。
取り決めを交わす集団同士が、それなりに地理的に離れた場所に位置していれば、入手可能な食料の過不足が同じ時期に重なることはあまりない。
互恵的相互依存の関係は、ときおり、敵意によって関係が中断されることはありえるが、伝統的社会のあいだでは広く見られる関係である。
無駄な諍いや戦争は止めるべきである。
飢え死にする以上の恐ろしさはないし、それ以上に重要な目標は、そうそう思いつかない。
リスク回避のために
死傷者の数
特定の危険が原因でもたらされる死傷者の数が、危険の度合いの判定基準になるかもしれない。
ただし、ある種の死傷者数は、われわれが危険を認識してリスクを最小限に抑える努力をするために、少なく抑えられているかもしれない。
われわれが本当に理性的であるならば、判定基準にすべきは現実に発生した死傷者数ではなく、対策を何も講じなかった場合に発生したであろう死傷者数ということになるかもしれない。
しかし、この推定は非常に困難である。
危険に手を出して得られるものが多いほどリスク嗜好的になる
危険に手を出して、得られるものが多ければ多いほど、その危険に手を出したがる。
犯罪に対して厳罰で臨んだとしても、犯罪が無くならないのは紀元前の中国の『韓非子』が指摘している。
リスクを正しく評価していない
人々がリスク評価を正しくできないことがしばしばある。
アメリカ人は、テロ攻撃、飛行機墜落、原発事故の三つを挙げるが、過去40年間の間でなくなったアメリカ人の総数は、自動車やアルコール、喫煙で亡くなった人のほうが多い。
こうしたバイアスは、われわれの恐怖心によってもたらされている。
危険が自分でコントロールできないもの、多数の人が一時に死ぬおそれのあるもの、新しくてなじみのないもの、危険の評価が難しいものに恐怖心を抱く。
つまり、危険を自分でコントロールできそうなこと、自分が自ら進んで行なうこと、一時に大勢の人が死なないようなことは、さほど危険とは認識しないのである。
リスクをとりたがる人がいる
世の中には、みずから危険を受け入れる人や、あえて危険を求め、それを楽しむような人がいる。
危険を受け入れるか受け入れないかは社会の影響力がある
世界には、どこまで危険を受け入れるかに関して、受け入れに比較的寛容な社会も存在すれば、それほど寛容でない社会も存在する。
西洋人の男性は危険であるのを承知で、あえて挑むような素振りをみせたり、危険な状況を楽しんでいるような素振りをみせたり、少しも怖れていない態度で振る舞い、自分の恐怖心を押し隠そうとしたりすることがある。
しかし、ニューギニア人がこのようなリアクションを示すことはないそうだ。
危険な状況を避けることは、分別ある人間の行動とされている。危険を避けたからといって、臆病者呼ばわりされることはない。男らしさに欠けるとも思われることもない。
そして、伝統的社会の人々は自分や他人が遭遇した危険を人に話して聞かせる。そのような話を長々とするのは娯楽のためだけではない。情報交換・情報共有や、教育的な目的もある。
建設的なパラノイア(被害妄想)
危険な環境では、蓄積された経験がものをいう。その知識の裏打ちされた経験則によって、危険な事態との遭遇の可能性を最小限に抑え、行動することができる。
事故の予防は重要である。事故によって死なずに生き残るためには、どのように行動すべきか、いつどのような場合には行動を起こしても大丈夫で、いつどのような場合には大丈夫ではないのかを知っていなければならない。
伝統的社会の人びとにとって、違ったやり方は危険なこと極まりないのである。
『してはいけないこと』をたくさん教えられた。自然が罰を下すというのが彼らの理由だった。
何事も起こるには、それなりの理由がある。だから注意しなければならないのである。