【読書】『昨日までの世界』[下]⑧【宗教の役割】
「それって本当に宗教?」
と疑問に抱く事件やニュースは枚挙にいとまがないが、現代社会のみならず、過去の歴史を鑑みても同様である。
宗教は信者に、大なり小なり、時間と資源の投下を求める。経済学の言葉を使えば、機会費用を奪っている―――――他のことに使える時間とエネルギーを奪っている。
だからといって、宗教が無くなるか、滅びるか、と言われると、そんなことはないだろう。
いつの時代でも、どこの社会でも宗教やそれに類似するものは存在する。宗教が存在し続けてきたということは、宗教が人間にとって必要なものであるということだ。
では、宗教とは何なのか?
他のことに使える時間とエネルギーを奪ってまでも必要である宗教は、どんな役割を持っていて、どんな効用があるのか?
宗教とは?
多くの信者がいる著名な教えを宗教として認めるか否かについてさえ、すべての宗教学者が同意見ではない。
仏教や儒教、神道を宗教とみなすべきか否かについても論争が続いている。
現在の傾向としては、仏教は認めるが儒教は認めないという見解が多いが、十年前二十年前は、儒教を宗教として認める見解が一般的であった。
ちなみに儒教は、現在では倫理と道徳の教えであり、世俗的な哲学である、とする考え方が一般的である。
一般に、宗教は五つの要素に関連付けて認識される。
- 超越的存在についての信念の存在
- 信者が形成する社会的集団の存在
- 信仰にもとづく活動証の存在
- 個人の行動の規範となる実践的な教義の存在
- 超越的存在の力が働き、世俗生活に影響をおよぼし得るという信念の存在
とはいっても、これら五つの要素の組み合わせで宗教を定義することは意味をなさない。
宗教であるのか、それとも人生哲学であるのかの判断をするには、なかなかにして難しいのだ。
宗教の役割の変化
宗教の役割を説明する喩として「デンキウナギ」を使うところがジャレド・ダイアモンドさんらしい。
進化論の立場に立てば、600ボルトの電気を発電できるデンキウナギは誕生しない、ということになる。微弱な電流では獲物を獲得できないため、自然淘汰で生き残れないからである。
この考え方には盲点がある。そもそも別の目的のために使用していた機能が段階的に進化し、最終的に「デンキで獲物を捕らえる」という機能を持つようになったのだ。
デンキウナギの発電器官は6つの役割がある。
- 獲物の探知
- ナビゲーション
- コミュニケーション
- 獲物の獲得
- 防御
- 獲物の誘因
人間とその他の動物と大きく異なるものの一つに、「危険予知」がある。
何らかの「原因」から発生する「危険」を予測する「因果関係を説明する能力」を磨いてきたからこそ、環境上のリスクから身を守る術を身につけることができた。
また、人間の行動そのものが「危険」につながることもあるが、それを回避する術、対処する術を学び、その学びを蓄積してきたからこそ、これだけの文明を発展させることができた。
司法・立法・行政がいまだ存在していなかった世界で、科学もPDCAという概念も存在していなかった世界で、人間の生きる道を何に求めるか?
その答えのひとつが宗教だった。
デンキウナギの電気と同様に、宗教は七つの役割があり、それぞれの役割が発展したり退化したりして現在に至る。
- 事象についての超自然的な説明
- 儀式によって不安を解消する
- 苦悩や死に対する恐怖心を癒す
- 制度化された組織
- 政治的服従への説示
- 同胞の他者への寛容
- 異教徒に対する戦闘行為の正当化
宗教の定義が難しいのは、どの役割が重要で、どの役割が必要であるか、時代とともに変化し、それぞれの社会でも差異があり、そして個人の見解でも差異があるからだ。
そして、これからもある役割が衰退し、ある役割が興隆していくことになるだろう。
それに、いくら科学が発展しても「生きること」「死ぬこと」の意味は提示できない。この面での宗教の役割は、支持されつづける可能性は高い。
近代経済学が定義する「個人消費とGDPは正相関関係にある」という説明で、個人の生きる道や個人の幸せが説明できるはずがない。
宗教の効用
超越的な存在を信じる
すべての宗教において、その信者は、自然界での実体験を通じて人が確認することもできず、その宗教の信者以外の人々にとっては信じることが不可能である信念をかたくなに信じている。
超自然的で宗教的な信念は、超自然的で非宗教的な信念と同様、無知蒙昧な迷信にすぎない。このことは、人間の脳は脳自体を騙すことができ、認知に思い込みを起こさせ、何でも信じるようにさせられることを示している。超自然的で非科学的な信念のなかにも、明らかに怪しげなものがある。
人間には誤りがつきものである。宗教的な迷信も、その原因のひとつかもしれない。
他人にとっては信じがたい宗教的迷信を、時間や資源を投じて信じることが、どの宗教にもみられる特徴であることは疑問が持たれる。
「だから宗教は・・・・・」
などと考える人がいたら
「ガンになったのは日ごろの行いが悪かったから」
と考える人がいる事実を忘れてはならない。
現代科学では説明できる部分とできない部分があること、そしてそれをスッカリ忘れて全く関係のないことを紐づけて考えてしまう人がいるということを。
因果関係・理由・説明
人類の脳は、原因と主体と意図を推定する努力と、そこから考えられる危険を予測する能力を徐々に磨いていった。
また、その予測結果の因果関係を説明する能力を身につけた。
人類の脳は、自然選択による進化の結果、些細な手がかりから最大限の情報を引き出せるように進化し、推論の誤謬が頻繁に起こり得ることが不可避だとしても、その情報を言語を介して正確に伝えることができるようになった。
他方で、われわれは、自分自身が事象の生起の主体になり得ることも承知している。
そして、ある種の行動は成功につながり、ある種の行動は失敗につながることを見極め、成功体験を繰り返し、失敗を回避することを学ぶのである。
ヒトの脳は、事象の間に因果関係を見出せる能力が備わっており、それこそがヒトが生物種として成功をおさめた第一の理由である。
事象を因果関係で説明しようとするのは人のつねである。昔の人が試みた説明のなかには、後世になって科学的にも正しいことが証明されたものもある。それとは逆に、結論は正しいが理由が間違っているものもあった。
祈り、禁忌、非科学的な迷信であるとしても、それは後世の人間の後知恵として知っているにすぎない。当時の人たちの観点からすれば、科学と宗教的迷信の違いなどというようなものは存在しない。
宗教のもともとの役割だった、事象について説明を提供するという役割は、近代科学が担いつつある。
不安の軽減
自分では対処のしようのない問題や危険がもたらす不安な気持ちを静め、和らげるという役割も、初期の社会では宗教の主要な役割だったと思われる。
2006年に起こったイスラエルによるレバノン侵攻では、ガラリヤ地区にロケットが大量に撃ち込まれた。
インタビューされた女性の約3分の2が、毎日詩編を唱え、ロケット攻撃の恐怖に耐えていたと答えた。同じ地区の、詩編を唱えなかった女性たちとの比較においても、詩編を唱えていた女性たちのほうが、不安で眠れないことが少なかった。
集中しにくかったり、イライラが募り他人に怒りを爆発させてしまったり、不安な気持ちになったり、神経質になったり、神経がピリピリしたり、気持ちが落ち込んだりということも少なかった。
つまり、詩編を唱えるという行為は、自分が無力であるという不安に心を奪われて何かばかげたことをしでかし、自分をさらなる危険にさらすというリスクを減じることができる。
その意味において、詩編を唱えた人に現実に利益をもたらしたのである。
人間というものは、実際に恐怖を感じる場面に直面したときに、自身の不安を自分でコントロールできなければ、軽率な行動に走りかねず、それにより、問題をなおいっそう増幅してしまいかねない。
これは、自分でコントロールできない危険な状況に直面したことがある人であれば、だれもが身に覚えのあることである。
人々の不安を和らげるという宗教の役割は、初期の宗教的社会においてすでに、最大限の役割をはたしていた。しかし、国家社会が登場し、人々が生活上の不安に対処できる術を身につけるにしたがい、その役割は減少していった。
伝統的社会の人々も、全く無力に手をこまねいていたわけではない。我々が驚くほどの観察力と、みずからの経験から得た知識を持ち合わせていた。そして、それを生かし、危険の犠牲になる可能性を最小限に抑えるべく努力をしていた。
しかし、彼らの努力には限界があった。現在のわれわれにも限界はあるが、彼らの場合は努力でカバーできない範囲があまりにも大きく、努力の甲斐のないことも多かった。最善の努力を尽くしても、どうしようもできないことがたくさんあるのだ。それでもなお、彼らは、ただ座って何もしないのが嫌なのでる。その点は、われわれも同じである。
そうした場合に、伝統的社会の人々は、われわれと同じく、祈りに頼るのである。
人の不安な気持ちを静め、和らげるという宗教の役割は、伝統的社会においてははるかに重要な働きを求められていた。
そして、この面での役割はなくならないのではないかと思う。
「マスクがない」「トイレットペーパーがない」といって店員さんにかみつき「カスハラ」などという新語を作り出した現在の状況を考えてみればよい。
どうせ時間が解決するとわかっているのだから、「カスハラ」などという行為に出て恨みを買うよりは、祈りを捧げているほうがよほど世のため人のため、何よりも余計な恨みを買わなくて済む自分のためであっただろう。
司法・立法・行政・集団の規律・組織論
小規模血縁集団や部族社会は、人口が小さすぎ、食料の生産が十分ではないため、専門職の人々を養えるだけの余剰食糧を得ることができない。ゆえに、働ける人はすべて働く、のである。
社会の規模が大きくなり、生産性が向上し余剰食糧が得られるようになると、指導者や官僚が必要になった。指導者や官僚は非生産層の人間であり、養ってもらわなければならない。
民主主義社会の市民たちが選挙のたびに思い浮かべるなじみのある疑問である。この前職候補は、前回の選挙での当選以降、血税から支出される高給に見合うような何かをしたのだろうか?
前近代社会の首長や王たちは、みずからの存在を正当化し、それを人民に納得させる手段として、宗教を利用した。
『韓非子』的に言えば法・術・勢、現代政治理論で言えば司法・立法・行政の確立された現在社会では疑問に思うことだが、人類の初期段階では宗教が必要だった。
誰もが顔見知りではない社会が登場し、人類に新たな問題を投じたのは、社会形態が部族社会から人口が数千人ほどの首長制社会に変遷した約7500年前である。見知らぬ他人との出会いが頻繁にある社会が到来したのである。
首長制社会の時代から世俗国家が登場するまでの時代では、宗教によって存在が正当化された行動規範のおかげで、見知らぬ他人との出会いが頻繁にある社会において、他者と平和的に共存することができたのである。
全く知らない赤の他人であったとしても、同じ野球チームを応援していれば会話が弾むように、同じ時間に祈りを捧げていれば自分と似たような価値観を持っているのだろうと安心できるのである。
他者との平和的共存と支配者に従うことを説く宗教の二つの役割は、社会秩序の維持という宗教の役割の二本柱である。
こうした宗教の役割は人によって見方が異なる。社会調和を促進したと肯定的に受け止める人々もいれば、エリート支配者たちによる大衆の搾取を可能にさせたと否定的に受け止める人もいる。
忠誠の証
人類史上最大の未解決問題がある。
それは、どうすれば自分の仲間として信頼できる人間と、信頼できない人間とを区別し、識別できるかという問題である。
集団の一員としての活動が長くなればなるほど、その集団に属属している人間を正しく識別することが重要となる。
一時的な利得を得ようとして同じ集団意識を共有するふりをする人間にあざむかれ、その人間を集団の一員として誤認しないことが大切なのである。
その方法のひとつとして、信仰心の深さを証明することである。
超越的存在についての宗教的な信念は非理性的である。しかし、心理的には納得し得る信念であり、満足にたる信念なのである。
だからこそ、理性的には信じることが不可能な存在ではあっても、信じることが可能な存在なのである。
宗教の特徴なかには、世俗的な人々を戸惑わせたり、人々の理解を混乱させるものがいくつか存在する。
それがもっとも顕著なのは、すべての宗教にみられる特徴である非合理的な超越的存在についての信念の存在である。
しかも、信者は自宗のそうした心情をかたくなに信じながら、他者の信条はほぼすべて排斥するのである。
信頼にたる信者である証は、目に見えなければならない。そして、何か魂胆のある人間が、一時的な利得のために、たんに信者のふりをするだけで得られるようなものであってはならない。
大きな犠牲をものともせず、生涯、身体に跡が残るような行為を自己の信仰心の深さと強さの証としてなし得たときに初めて、自分が信頼にたる信者であることを、信者のあいだで効果的に納得してもらえるのである。
これは政治制度がいくら整えてみたところで、モラルとマナーの向上を訴えてみたところで、よからぬ企みを企てるものが後を絶たない状況を考えてみればよい。
妙な話だが、これから悪事を働こうと企てている人間ですら同様のことを考える。ともに悪事を働けるかどうか信用できるかどうかで、悩んでいる。
癒しの提供
ヒトに癒しや希望を与え、人生の意味について語るのが、宗教の主たる役割であり、過去一万年の人類史を通じて、人々のあいだで次第に受け入れられるようになってきた部分である。
宗教がわれわれに与える癒しとは、死期が近づいたり、大事な人を失ったときに、宗教から提供されるそれである。
自分もいつかは死ぬと思えるのは人間だけであり、人間以外の動物がこの事実を理解しているとは思えない。
人類が昔から、命が尽きるということを理解していたことを示す証拠は、考古学的に検証されている。
社会によって表現は異なるが、
「地獄に落ちろ」
という言葉には、重要な役割が託されている。
ひとつは、人の苦痛を癒す働きである。法の目をかいくぐり、訴えられない程度の悪事を働く人、訴えられても大したペナルティーしか与えられない人に、そういう言葉をかけてスッとすれば、自分が悪事を働く必要はなくなる。
もうひとつは、宗教の道徳規範にしたがうようにしむけることである。死後の不安を掻き立てることで、現世での秩序安定を図るのである。
戦闘の正当化
部族社会では、戦争とのかかわりにおいて宗教を考える必要がなかった。人の行為を正当化したのは宗教ではなく、人間関係だったからである。
国家が宗教の力で、他者に対して平和的にふるまうという規範を正当化した時点で、矛盾が生まれたのである。一方で他者と諍いをするなという規範を自国民に要求しながら、他方で他者の集まりである他国との戦争では同じ規範に従わなくてもよいと自国民に告げるのである。
18年にわたり「殺してはならない」と教えられた少年が、「これこれの状況においては、殺さなくてはならない」と急に手のひらを返したように告げられれば、混乱しないほうが不思議である。
興味深いことに、ニューギニア人のあいだでは、異部族の人間を攻撃したり殺したりする行為を宗教で正当化することはない。動機が宗教だったというニューギニア人は一人としていなかった。
宗教的理想が良い方向に発揮されると、国家の繁栄を後押しする。
逆に、宗教的理想が悪い方向に発揮されると、狂信的信念のもとに危険な存在にしてしまう原因なのである。
これまでに人類は多くの戦争を経験してきた。そこから得られる教訓をもとに、回避する方法を編み出すには、もっとバランスの取れた考え方ができるようにならなければならない。