【読書】『誰が国家を殺すのか 日本人へⅤ』【民主政は民主主義者を自認する人々によって壊される】

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ポピュリズム・衆愚政

Xで勝つには

 第一に、短文でなければ、やるだけ無駄であること。
 第二は、写真よりも動画のほうがインパクトが強いこと。
 第三に、口調は常に攻撃的でケンカ腰であること。
 第四は、舌戦の場から絶対に退場しないこと。それどころか、相手の攻撃には時をおかずに反撃し、しかも言説に誤りがあっても訂正などはせず、くり返し波状攻撃をつづけること。

もはやイタリアでは、ネット世代でなくても新聞は読まずテレビの解説も聞かなくなっていたからである。
 そして、このツイッター合戦が投票に影響を与えたのは、既成のマスコミまでが舌戦の一部始終を、自分たちの媒体で流し始めたからであった。結果は、すべてのメディアの週刊誌化。こうなると広い視野に立っての考察などは居場所を失ってしまう。
 どこかの国でも起ってはいませんか?

大局的な判断が下せない

 2018年のイタリア総選挙で議席数を増やしたのは「五つ星」と「北部同盟」だった。
 両党とも政治公約で大盤振る舞いをした。「五つ星」は低収入層で失業している人に対する給付金、「北部同盟」は減税。しかし、財源の問題になるとあやふやになるのだが、一般有権者には受けるから、票は獲得できる。
 最近では、大衆迎合政治という意味で「ポピュリズム」というらしいが、これでは「衆愚政」のほうが適している。
 「ポピュリズム」というのも、すっきりしない。また、政治家も有権者も愚かになってしまったのだから「衆愚政」のほうが適切なのである。

 デモクラシーは、古代ギリシアのアテネで生まれ、成熟して、死んだ。ペリクレスが生きていた時代に機能していたのに、死んだ途端に衆愚政になってしまったのはなぜか。
 ペリクレスがたぐいまれな政治家であったのは定説だが、ペリクレスが死んだ途端に、アテネ市民が愚か者に一変した、ということはありえない。
 ペリクレスは言葉という武器だけで、現状へ怒りと近未来への不安を、希望に変える技に優れていた。
 反対に、ポピュリズム時代のリーダーは、怒りと不安を煽り立てることを特技としている。大義名分は、国民のニーズを汲みあげることと、その国民に寄りそうこと。
 怒りと不安に駆られ、それを他者に責任転嫁する一方では、正しい結果など生まれるはずがないのだが。

強いリーダーを目の前にすると迷う

 良識あるイタリア人ならば、民主政を機能させるには強いリーダーが必要なのはわかっている。しかし、いざ強いリーダーを眼の前にすると、迷ってしまうのだ。
 ペリクレスの時代のアテネでは、指導者と市民の間で課題や民主政のあり方についての価値観が共有されていた。このとき、民主政は大きな力を発揮できたのである。しかし、そのアテネでさえも、50年しか持たなかったのである。
 古代ギリシアの経験は近代に入って再発見されるが、そこで当初追及されたのは、「良識的な政治指導者」と「短慮に走らない市民」であった。

人間は仕事を通して存在理由を確立する

 人間は仕事を通して存在理由を確立していく。ゆえに「失業」は「存在理由の喪失」を意味する。したがって、「食」を保障するだけでは足りず、「職」を保障することが、真の社会福祉なのである。
 自信を得られれば他者に寛容になれる。他者に寛容になれれば、交流が生まれる。他国との交流が進めば、経済は向上する。政治家たちにも安心して国政を託すようになれる。
 すなわち、民主政が機能している状態。

 日本をふくめた文明諸国は、人権尊重という大義を樹立している。したがって、難民といえども保証されてしかるべきというのが「文明的な対応」なのである。
 しかし、北西ヨーロッパ諸国は難民をシャットアウト。ハンガリーにいたっては国境沿いに鉄柵を張り巡らせている。
 それで難民はイタリアに留まるしかなく、「文明的な対応」を続ける政府と与党に対して国民の怒りが爆発している。
 なぜイタリア人が払う税金で、彼らに人間並みの衣食住を保証しなければならないのか、自分たちは人間並みの生活をするのに毎日苦労しているのに、である。
 外国人との交流は人道上の観点からだけでは解決しない。だからといって、経済的な理由だけでは、日本はいずれ他国から非難される。
 それに、差別の感情は、誰もが持っている。自信のある人はそれが少なく、自信のない人は多い、というだけ。なぜなら、人間には、他者と差別することでようやく自分の存在理由を確認した気になれる人が多いからである。
 そうであるならば、差別感情は誰でも持っていることを頭に置いての、冷徹なやり方によってしか実現しない。そして何より、誰のためにもならない。

民主政は民主主義者を自認する人々によって壊される

 イギリスのEU脱退(ブレグジット)は、イギリス人自身が国民投票にかけ、民意に問うた結果、決まったものである。ところが、民意をどうやって具体化するかが明らかになったとき、民意が動揺して収拾がつかなくなってしまったのである。
 収拾がつかなくなってしまったのは、英国の指導者が民意を尊重しなかったからではない。尊重しすぎたからである。
 そもそも「代議制民主政」とは、選挙で票を獲得した人々に、国政の担当を依頼しているのである。それなのに、選挙で選ばれて国政を委託された国会議員が、委託した国民たちに決めてくれというのでは、代議制民主主義の放棄に等しい。

 民意とは、世論調査が示すように、ころころ変わる。それで民意を尊重していると、一貫した政治ができなくなる。
 全員のためを考えていては一人のためにもならない。全員平等という立派な信念を守りたい一心こそがかえって、民主政の危機を生んでいる。
 「民意」こそが真の正当性を持つ、などという幻想からはいい加減に卒業してはどうだろうか。民主政を守るために。