【読書】『戦国日本と大航海時代』
歴史だけではなく、現代のニュースでも、人間でも同じことが言える。歴史の解釈は固定的でないほうがよい
固定的な解釈をしていると、視点の固定化を招くことになる。
進攻・侵攻・進入・侵入・進出・侵出・・・・・
どのような言葉を用いても、その土地に住んでいる住民からしてみれば、侵略でしかない。
『十字軍物語』を読んでいると、他国のことなので客観的に考えられる。
しかし、それが自国のことだと?
デリケートな問題になってしまうので、封殺―――――ということをしてしまうと、本書の疑問
「秀吉は、なぜ朝鮮半島に出兵したのか」
の答えが、
「領土欲にかられて」
にしかならない。
よく考えてみれば、日本は、世界の一部。
だから、世界の影響を受けているのです。
そういうことをすっかり忘れてしまうハメになる。
それが、固定的な解釈・視点の固定化につながってしまうのです。
- 歴史の解釈は固定的でないほうがよい
- スペインとポルトガルの世界分割案があった
- 秀吉は軍事力でスペインとポルトガルに対抗
- 軍事力で日本を占領することをあきらめたスペインとポルトガルは、キリスト教を布教して、日本を内部から切り崩す作戦に変更
- 家康は「キリスト教布教+日本征服」に対抗するために、禁教と鎖国
歴史の解釈は固定的でないほうがよい
歴史の解釈は固定的でないほうがよい。歴史に対しては多様な解釈が可能だからである。また、この検討をとおして、世界史は相互影響のなかで動いているということ、歴史には連続性があるということを再確認することにもなった。
これが本書を読んで、最も勉強になったところだろう。
学校の先生を責めているわけでも、義務教育を責めているわけでもない。
世界史と日本史をまとめてやってね、なんてことを学生時代にやられたら、パンクするのは明らかだ。
学校教育終了後に勉強するしかないことだ。
学校教育終了後、知識をアップデートする必要もあるけれど、別の角度で見たらどうなっちゃうの? ということも考えなければならない。
これは、歴史に対してだけでもなく、現在のニュースでも、人間関係でも、あてはまるはずだ。
解釈は、固定的でない方がいいのです。
視点も、固定的でない方がいいのです。
スペインとポルトガルの世界分割案
さらに、一五二九年サラゴサ条約で、地球の裏側まで線を引き、スペインとポルトガルで世界を分割しちゃおうという発想。一四九四年に、スペインとポルトガル両国がトルデシリャス条約を締結して、デマルカシオン(世界領土分割)体制を確立させたということである。
世界史の授業で学んだ、こんな身勝手な条約。
これを、日本に対して適用されたら?
新大陸で成功したのだから、日本を含む東洋で成功させようとスペイン・ポルトガルはやってきてしまう。
ちなみに、当時の中国は明末。農民反乱と対外戦争で弱体化していたのだから、うまくやったら中国・明を征服できたかもしれない。
【参照】
【読書】『海東青 摂政王ドルゴン』
【読書】『紅顔』
明を征服できそうだから、日本だって征服しちゃおう。日本人を兵として明国征服に使ってしまおう。
そんなことを考えていたスペインとポルトガル。
それに対抗しようとしたのが、秀吉・家康だったのです。
秀吉の場合:インドまで攻め込むぞ
はじめから世界に目を向けていたのです。驚くのは、それより少し前の七月一二日に、対馬の宗氏に対して、朝鮮が秀吉に服属するよう交渉役を命じていたことである。その翌年には島津氏に対して、琉球に使節を派遣し、入貢させるよう命じている。島津氏を屈服させた直後に秀吉は、「この上、兵を用いるならば高麗・琉球ならん」と述べていたというから(辻善之助、一九四二)、矢継ぎ早にそれを実行に移していったのである。
まだ関東には小田原北條氏が盤踞し、奥州では伊達政宗も気を吐いていた。全国平定にいたってはいない時期にもかかわらず、朝鮮と琉球を服属させようとしていた。国内を統一したから海外へ、ではなかったのである。
このことを、北条氏や伊達政宗が知っていたら? それを口実に和平交渉していたら? とか考えてしまうけど。
では、なぜそんなことを考えていたのか?
秀吉は、両国の野望を知っていた。秀吉は生前の信長に、ポルトガルとイエズス会は日本を征服しようとしている、と話していたからである。日本を征服しようと考えている不届き物がいる。
不届き物の対処を考えていたのです。
秀吉は朝鮮出兵を明国征服の前段階として位置づけていたのだが、彼の視野は明国にとどまってはいなかった。それを裏付けるのが、琉球や台湾、フィリピン総督にまで服属を要求していたことである。それだけではなく、遠くインドのゴアにいるインド副王にまで威嚇的な書簡を出していた。インドまで征服するつもりだったのか。
もし実現していたら、アレキサンダー大王になってしまったかもしれない。
このような事実を前にすると、秀吉による朝鮮出兵は、たんに日本と朝鮮との関係、あるいは日本と明国との関係だけで考えるべきではないということになる。朝鮮半島の方には迷惑な話だが、スペインとポルトガルの動きにも目を向けなければならない。
秀吉の朝鮮出兵は失敗したけれど、スペインとポルトガルを威嚇する効果はあった。
スペインとポルトガルはこれをみて、「軍事力で日本を征服するのは不可能」と判断。
このイメージが、江戸時代の鎖国を経て、開国した日本が欧米列強の帝国主義に飲み込まれなかったことにつながったのかもしれない。
と考えると、秀吉の朝鮮出兵は相当な効果があったのだろう。
家康の場合:対外関係の修復と貿易と禁教
とはいっても、秀吉の朝鮮出兵は失敗。
それにより、朝鮮半島の方々とも、明国とも、険悪な関係になってしまったことは事実。
対外関係の信頼回復に努めなければならなかった、家康の心痛。
しかし、そんなことはお構いなしに、スペイン、ポルトガルは日本征服の野心は捨てません。
「軍事力で日本を征服するのは不可能」
そう悟ったので、
「キリスト教を布教しよう。そして、キリシタン大名とキリシタン信者を増やし、内部から日本を切り崩そう」
という作戦に変更。
そもそも、信長も、秀吉も、家康も、いや日本人も、キリスト教そのものには偏見はなかったのです。
たとえば、秀吉。
「八宗九宗の儀に候間」とあるのは、八つある宗派が九つになったところで問題はない、ということだろう。キリスト教が存在しても一つ宗派が増えるだけで問題はないし、それを信じようが信じまいが庶民は自由だということである。次に、家康。
日本の僧侶たちがキリスト教の宣教師を追放するよう請願したとき、家康は、三五ある宗派が三六になっても問題はない、これを「存せしめよ」と述べたという。キリスト教の一宗派が増えても大したことではない。キリスト教に対する家康の柔軟な態度を示すこのエピソードを、ビベロはうれしそうに書いている。宗教そのものには寛容だったのです。
ところで、江戸に配置転換になった家康は、江戸にヨーロッパの貿易商人を呼びたい、と思っている。
しかし、貿易商人を呼ぼうとすると、その交渉のカードに「キリスト教布教」を織り交ぜてくるスペインとポルトガル。
執念といえばいいのか、懲りないといえばいいのか。
当然、家康だって「キリスト教布教」と「日本征服計画」には黙っているわけがない。
ここに、遅れて日本にやってきたオランダとイギリスの貿易商人。
スペインとポルトガルの計画を吹き込む。日本のマーケットからスペインとポルトガルを締め出そうという腹だ。
しかし、スペインとポルトガルの計画を吹き込んでしまったからには、同じことをオランダとイギリスができるわけがない。
その結果、家康にとって都合がいいのは、オランダとイギリス。
かくして、禁教と鎖国、につながったのです。
まとめ
- 歴史の解釈は固定的でないほうがよい
- スペインとポルトガルの世界分割案があった
- 秀吉は軍事力でスペインとポルトガルに対抗
- 軍事力で日本を占領することをあきらめたスペインとポルトガルは、キリスト教を布教して、日本を内部から切り崩す作戦に変更
- 家康は「キリスト教布教+日本征服」に対抗するために、禁教と鎖国