【読書】『名画で読み解く ロマノフ家 12の物語』

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 ハプスブルク家の源流がオーストリアではなくスイスの一豪族だったように、ロマノフ家の始祖もまたロシア生まれではない。十四世紀初頭、プロイセンの地から――後世におけるドイツとの深い関わりを予感させる――ロシアへ移住したドイツ貴族コブイラ家が、息子の代でコーシュキン家と改姓し、さらにその五代目のロマン・ユーリエヴィチが、自らの名ロマンをもとにロマノフ家へと再変更した。リューリク朝イワン雷帝の時代である。

ポイント

  • 「統治するなら分断せよ」は大間違い
  • 家庭内紛争も間違い
  • 「傾聴」のススメ
  • 追放するなら、思いっきり遠くへ

「統治するなら分断せよ」は大間違い

分裂が何かよい結果をもたらすとは信じられないからである。それどころか、敵が攻めてきた時に町が分裂していれば直ちに失われてしまうのは必至である。何故ならば、より弱い党派は外部の力と同調し、他方の党派は統治ができないからである。『君主論』

 モラルがあるとは到底いえないマキアヴェッリですら、
「国内の分裂は間違いである」
と断言している。

 リューリク朝イワン雷帝は、ロシアの領土を北は北極海、東は旧シベリア・ハン国、南はカスピ海まで広げた。もちろん名君である。
 雷帝は国内各地から貴族の娘たちを集め、その中から、ロマン・ユーリエヴィチの娘アナスターシャを選び、結婚する。
 この結婚は夫婦に幸福を与える。ロシアにとっても。雷帝は癇癪持ちだったのだが、アナスターシャが上手くなだめていたからだ。
 しかし、この幸福は、アナスターシャの急死でピリオドを打つ。
 雷帝は毒殺を疑い、犯人は保守的な貴族たちだと決めつける。
 前例はある。雷帝の実母も毒殺された。
 動機もある。元ドイツ貴族の新興ロマノフ家に対する、国内大貴族のやっかみ。
 ということで、癇癪持ちの雷帝の粛清が始まる。名君が暴君に変わってしまったのである。

 雷帝の癇癪は実の息子にも向かう。
 雷帝と同名の息子イワン(人名のボキャブラリーの少なさはヨーロッパ史の宿命である)の妻が、身重のために略装で現れた。
 これに癇癪を起した雷帝は王杖で殴打。これが原因で流産。
 それはないだろうと抗議してきた息子イワンも、雷帝は王杖で殴打―――――
―――――雷帝は実の息子イワンを殺してしまうことになる。

パブリックドメイン美術館
 雷帝の癇癪のすさまじさをよく表現している。そして、雷帝とロシアの不幸も表現されている。
 アナスターシャの賢明さと美貌を引き継ぎ、将来を嘱望された息子イワンの死。もう一人の息子フョードルは、はなはだしく知能が低く、君主の器ではないことは明らか。
 ということで、雷帝の死後、ロシアは混迷を極める。

 国内をまとめられない皇帝。
 自家の勢力拡大のために権力闘争を行う大貴族。
 とどめのように、ポーランドの侵攻。

 ロマノフ家の歴史は、世代交代のたびに権力闘争が起きる歴史でもある。
 ロシアの場合、国内の大貴族を解体し、皇帝のもとに権力を集中し、中央集権体制を確立すればよかったのだ。
 これには、『漢帝国』が参考になる。

  漢帝国の場合は、貴族ではなく、劉家の血を引く封建諸王という違いはあるけれど。
 後継者全員に、平等に、分割相続させる。これを続ければ、何世代かのちには、抵抗できないほど細分化され、弱体化できる。
 その段階で一つ一つを握りつぶしていき、皇帝のもとに統一し、中央集権を確立する。
 あわてず、焦らず、時間を味方につけて国内を統一すればよかったのだが、ロマノフ家はそれができなかった。

家庭内でも大戦争

 新興プロイセン。
 フリードリヒ二世のシュレジエン侵攻から始まったオーストリア継承戦争、続いた七年戦争は、ヨーロッパの勢力地図を変える。
 プロイセンに手を焼いたオーストリアのマリア・テレジアは、宿敵フランスと手を結ぶ「外交革命」までやってのけ、さらにロシア女帝エリザヴェータとも手を結び、三国同盟でプロイセンを封じ込めるのに成功―――――
 この成功が長続きしなかった。

やがてエリザヴェータがフランスのポンパドゥール(ルイ十五世の寵姫)とオーストリアのマリア・テレジアと組み、いわゆる「ペチコート作戦」(女三人の連合だったため、女性用下着ペチコートの名が付けられた)でフリードリヒ大王の息の根を止めようとした時、邪魔をするのが自分の後継者、という冗談のような構図になってしまう。
 これには少々説明が必要なのだが、文章にするよりも、図解した方が分かりやすいので、図にしてみました。

 ピョートル三世はエリザヴェータの姉の子ども、つまり甥。
 ピョートル三世は、父方の親戚のもとでドイツ人として育てられたのだが、ロマノフの血を引いていたことから、ロシアに迎えられ、ロシア皇帝になる。
 自分の立場もわきまえず、ロシアを後進国と馬鹿にしてはばからない。そればかりか、ドイツを礼賛。プロイセンのフリードリヒ二世にあこがれる。
 ロシア・フランス・オーストリアのプロイセン包囲網を破ったのが、ロシア皇帝ピョートル三世という笑えない話になる。 
フリードリヒ大王から、「陛下は我が救世主です」との謝辞をもらった新ツァーリは良い気分であったろうが、自国軍の烈しい怨嗟を買ったことへの十分な自覚はなかった。
 これではどこの皇帝なのか分からない。
 エリザヴェータならずとも、ピョートル三世に期待せず、むしろその妻エカテリーナ二世、ピョートル三世とエカテリーナ二世の子パーヴェル一世に期待するのは自然の流れと言えよう。
 それに、エカテリーナ二世だってドイツ人。結婚したからロシア人になったのだ。それでも、ロシアの歴史を学び、ロシアの国益を第一に考えている。
彼らにしてみれば、母方のロシアの血を忘れ、自らをドイツ人と見做してロシアをドイツ化せんとしている愚劣なツァーリより、どこからどこまでもドイツ人でありながら、ロシア国民にそれを忘れさせるほどになった妃のほうが、はるかに国の為になる。
 ということで、エカテリーナ二世は、夫ピョートル三世に反旗を翻し、政権奪取することになる。

 ただし、エカテリーナ二世にも問題があった。
 やはり後継者問題がネックになる。
 実の子、パーヴェル一世の養育を、エリザヴェータに奪われたしまったため、愛情が湧かない。
 パーヴェル一世の方も思いは同じ。母と言っても他人同然、しかも、父を殺したのはエカテリーナ二世だと思っている。
 エカテリーナ二世もパーヴェル一世に失望し、孫のアレクサンドル一世に期待し、両親のもとから孫を引き離し、自分で養育する―――――
―――――自分が同じ目にあっているのに、それを子の世代に同じことをしてどうするのか?

 親子喧嘩。夫婦喧嘩。叔母と甥の争い。
 国内の貴族も権力闘争に明け暮れていたが、ロマノフ家内でも家庭紛争が絶えなかったのだ。
 せめて帝室のなかだけでもまとまってくれたら、また違う展開を迎えていたかもしれない。
 ロマノフ家の歴史は、家庭内でも大戦争の歴史でもあった。

アレクサンドル一世に学ぼう

アレクサンドルは彼に対しても愛想よく接したが、それはもちろん女帝を喜ばせるためだ。

アレクサンドルが、単なるその場しのぎに他者へ良い顔を向けていただけでないことは、二つの大きな事件への対応がはっきり物語る。いったんこれと決断したなら彼は、他人の思惑を蹴散らしてもやり抜く胆力の主だった。一つは父殺し、もう一つは対ナポレオン戦争――
 パーヴェル一世の母親憎しは、上述した。そして、即位後は、政治的能力の欠如も明らかになる。だからといって、父殺しはあまりいい話ではないのだが。
 アレクサンドルの
「他人の思惑を蹴散らしてもやり抜く胆力」
とは?

アレクサンドルの「傾聴」

 アレクサンドルがしばしば優柔不断と見做されたのは、これら主義主張の異なる人々が彼の賛同を得たと信じ、なぜすぐ行動に移さないのか、躊躇しているのではないかと苛立ったせいだ。まさかあれほど真剣に耳傾け、同意を示してくれるアレクサンドルが、心の奥では、聞いてやったのだからそれで十分、で済ませているとは想像もできなかった。

 「傾聴」というスキルはトレーニングが必要で、結構難しいものだ・・・・・
・・・・・と思っていたのだが、そんなことで良かったのか。
「心の奥では、聞いてやったのだからそれで十分」
 そう考えて、にこやかに愛想よく接しましょう―――――
―――――相手の立場に立ったら、これほどたちの悪いモノはないだろう。
 うかつに同じことをしてしまったら、交友関係が悪化すること間違いないからオススメはしない。
 しかし、政治家としては必要な能力であることは、ナポレオン戦争で明らかになる。

アレクサンドルの「ナポレオン戦争」

若い将校らにおだてられたアレクサンドルは、援軍到着まで静観するようにとのクトゥーゾフの諫めもきかず、ナポレオンの計略に乗せられて自ら指揮をとり、決戦へなだれ込んだ。

 アレクサンドルは、アウステルリッツとフリートラントで、ナポレオンと二回戦い、そして二連敗する。
 アレクサンドル一世は、ナポレオンの講和条約締結の要求を呑むしかなく、ティルジット条約を結ぶしかなかったのだが―――――
―――――戦争面ではナポレオンに勝てなかった。しかし、外交面では勝てた。
この時ナポレオンは相手の賞讃を勝ち得たと疑わなかったが、例のごとく、それはアレクサンドルの外面の良さでしかなく、実際には母親への手紙にこう書いていた、「ナポレオンは天才だが弱点が一つあります。それは虚栄心です。わたしはロシアを救うため自尊心を捨てました」。また妹に宛てては、「最後に笑う者がもっともよく笑うのです」。然り。
 アレクサンドルの「傾聴」がここで大きな役に立っているのである。
「心の奥では、聞いてやったのだからそれで十分」
 ナポレオンも、これにまんまと騙される。
後年ナポレオンは、自分より八歳年下のこのロシア皇帝を、「才知あふれるが性格に何か欠落したところがある」、「魅力的だが信用ならぬ偽善者」と評した(中略)
 ナポレオンが英雄であったことは間違いがない。
 しかし、そのナポレオンの栄光も、ロシア遠征の失敗で下り坂を迎えるのだから、アレクサンドルも英雄であったのだ。
 その英雄たる方法とは、
「心の奥では、聞いてやったのだからそれで十分」
だったのかと思うと、なんだか微妙である。

追放するなら、思いっきり遠くへ

 ナポレオンの没落は、ロシア遠征失敗から始まるのだから、アレクサンドルはもっと評価されていいのだが、後世の評価はアレクサンドルに厳しい。
 ロシア遠征に失敗したのは、冬将軍だ―――――
 ナポレオンを破ったのは、イギリスのウェリントンだ―――――
 そうなってしまうのは、アレクサンドルがナポレオンの流刑先に選んだのが、地中海のエルバ島だからだ。

 アレクサンドルは監視責任のあるイギリスのウェリントンに、「なぜ島から逃がしたのですか」と詰め寄ったが、ウェリントンは逆に「なぜあんな場所に彼を置いたのですか」と反論した。そして大勢はウェリントン側だった。アレクサンドルの栄光はここに色褪せる。
 当てつけではないが、シベリアにでも送ってしまえばいいものを・・・・・
 これも「図解」に頼るとして、「GoogleMAP」を活用しよう。
 パリからエルバ島。 自動車で13時間から15時間。(見る時間によってズレがあります。)
 ひと口に、シベリアといっても広義の意味でも、狭義の意味でも、歴史的にとらえても、広すぎるので、ロマノフ朝・最後の皇帝ニコライが処刑されたエカテリンブルクまで。 同じく、50時間以上。(こちらもズレがあります)
 こうやってGoogleMAPで見ると、ウェリントンならずとも、
「なぜあんな場所に彼を置いたのですか」
と言いたくもなるものですなぁ。
 追放するのなら、中途半端な所ではなく、思いっきり遠くに追放しなければなりませぬ。
 そして、GoogleMAPは、こんな形で役に立つとは思わなかった。

まとめ

  • 「統治するなら分断せよ」は大間違い
  • 家庭内紛争も間違い
  • 「傾聴」のススメ
  • 追放するなら、思いっきり遠くへ