【読書】『ローマ人の物語 ハンニバル戦記[中]』04【ハンニバル戦争】
紀元前219年、ハンニバルはサグントを攻撃する。
サグントはギリシア人の入植者が建設した都市である。サグントはローマと同盟関係にある。もちろん、ローマに援けを求める。
第一次ポエニ戦役で、エブロ川以北にカルタゴは侵攻しないという協定を結んでいた。ところが、サグントはエブロ川の南にある。
ローマと同盟を結んでいるが、協定違反にはならないエブロ川以南、という微妙な位置に存在するサグントを攻撃する。
カルタゴの「国内重視派」の総帥ハンノンだけは、不吉な予感をおぼえ警告を発した。
しかし、カルタゴもローマも、これが第二次ポエニ戦争の発端になるとは考えていなかった。
ハンニバルの戦略
サグント陥落で、ローマ市民集会はカルタゴへの宣戦を可決する。これで、ハンニバルはイタリア半島へ侵攻する口実を手に入れる。
とはいっても、スペインからローマに攻め込むには、陸路にしても海路にしても、遠すぎる。
第一次ポエニ戦役でシチリアを失っているために、カルタゴ本国からでも遠すぎる。
したがって、現代のフランス、当時ではガリアと呼ばれている地方を迂回し、アルプスを越える道以外に方法はなかった。
とはいっても、当時のフランスは森に覆われていた。秘匿の行軍には都合がいい。
それに、アルプス越えがまったく可能性のない大冒険ではないことも知っていた。アルプスの北からでも南からでも、ガリア人が往復していたからだ。
ただし、フランスにも、アルプスの南北にも、ガリア人は住んでいる。それに、ガリア人がハンニバルに協力しなければない理由はない。
ガリア人は、時には間違った情報を教えたり、岩を落としたり、弓矢を降らしたりしている。
ハンニバルは、ガリア人を金で懐柔したり、懐柔できなかったら武力で服従させたりしている。
アルプスを越え、金で懐柔したガリア人を傭兵として従え、イタリア半島に攻め込む。
ティチーノ、トレッビア、トラメジーノ、カンネとローマ軍を粉砕し、カラーブリア地方を攻略。カプアを離反させ、ターラントを事実上占拠する。
ローマ連合の解体
ハンニバルは、第一次ポエニ戦役での、ローマの勝因が「ローマ連合」にあると考えた。
よって、ローマ連合の解体を狙い、外堀を埋めてから、ローマの崩壊を狙った。
まず、ローマ連合の加盟都市に対し、焼打ち、略奪を行う。
出撃したローマ軍と会戦して、撃破する。
ローマ連合の加盟都市の捕虜兵は身代金も取らずに釈放する。
ハンニバルの目的はローマ本国であって、「ローマ連合」の加盟都市ではない、と伝えることも忘れない。
敵の主戦力の非戦力化
ハンニバルは、ローマの主戦力である重装歩兵を「包囲殲滅」することで、非戦力化した。
トラメジーノでは、湖畔の細長く伸びた平地を利用し、地形を活用して、包囲殲滅を実行する。
カンネでは、重装歩兵で中央突破を図るローマ軍を、はじめに誘い出し、次いで両翼から挟撃する、戦術を用いて包囲殲滅を行った。
のちに、ハンニバルはスキピオの質問に答え、もっともすぐれた武将にアレクサンダー大王を挙げている。ということは、アレクサンダー大王から戦略を学んだに違いない。
アレクサンダーも3万6千の兵で、10万から20万の兵を動員してくるペルシアに攻め込み、大勝している。
反撃
ローマ人は印鑑として金の指輪を使用していた。カンネの会戦で、戦死者のローマ兵から金の指輪をもぎ取り、末弟マゴーネにカルタゴ本国に持ち帰らせ、要人の前に山を築かせた。
カルタゴ本国でも、対ローマ戦に傾くが、国内重視派ハンノンの警戒心は解けない。
「ラテン民族は寝返ったのか?」
この問いに、末弟マゴーネは答えられない。
完勝、としか言えないハンニバルに居座らたとしても、離反したのはカプアのみであったからだ。
ファビウスは「ハンニバルと闘わない」
自分自身を含めて、誰もローマの武将はハンニバルには勝てないだろう、とファビウスは考えた。
そうならば、ハンニバルとは闘わなければよい。
つかず離れずの距離にいて、ハンニバルが繰り出した別動隊を叩く。ハンニバルの補給路を断ち、兵力を削る。
ファビウスは消耗戦に切り替えた。
ハンニバルという「敵の主戦力の非戦力化」に成功した戦略と言えるのだが、人気がない。
ファビウスには、「コンクタトール」というあだ名がつけられるのだが、当初は「くず男」という意味だった。
とはいっても、戦闘が進むにつれ、ファビウスの戦略が有効であることが理解された。ハンニバル以外にめぼしい指揮官はいないのだ。目立った戦果は挙げられなかったが、状況は悪くなっていない。
「コンクタトール」は「持久戦主義者」という意味に変わる。
ローマ軍はカプアを包囲する。そして、ハンニバルからの攻撃から守るため、自分たちの包囲陣も作る。
カプア包囲陣から出てこようともしないローマ軍を挑発するため、ハンニバルはローマまで散策する。
それでも、ローマ軍はハンニバルと直接会戦するのは避けた。
カプア陥落。さすがに100年の間に2度も寝返ったのでは、ローマ人も許さなかった。約70名の有力市民が処刑された。
前209年にはターラントの再復にも成功する。
スキピオは「ハンニバルから学ぶ」
アレクサンダーの最高の弟子がハンニバルだとしたら、ハンニバルの最高の弟子は、プブリウス・マルテリウス・スキピオだった。
どうも、ハンニバルの戦略は、カルタゴどころか弟たちも学ばなかったらしい。
スキピオは、前209年、ハンニバルの根拠地カルタヘーナを堕とす。
前207年、ベグラではハンニバルの包囲殲滅戦を踏襲してハンニバルの弟ハシュドゥルバルを撃破する。
この会戦後、スキピオはハシュドゥルバルを追撃しなかった。追撃途中で他のカルタゴの二軍と出会う危険を回避したのだ。
父と伯父が犯した誤りを繰り返してはならなかった。
善後策を講じたカルタゴ軍は、ハシュドゥルバルがイタリアに向かいハンニバルと合流する、末弟マゴーネとジスコーネがスペインでスキピオにあたる、というものだった。
結果、ハシュドゥルバルのイタリア行きを許してしまったことになるが、補給路を断つことでハンニバルの孤立を狙ったファビウスは、スキピオを生涯にわたり信用しなかったそうだ。
アルプスを越えてイタリアに入った、ハシュドゥルバルは、前207年メタロウの会戦でネロに討ち取られた。兄弟の合流はならなかった。
前206年イリバの会戦での勝利で、スキピオはスペインからカルタゴ勢の一掃に成功する。
スペインからのカルタゴ勢一掃、カプア攻略、ターラント奪還、ハシュドゥルバル戦死。
ハンニバルが狙った「ローマ連合の解体」は挫折した。