【読書】『ローマ人の物語 ハンニバル戦記[下]』05

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 スペインを制覇したスキピオには、ローマで凱旋式を挙げる資格があったが、挙行しなかった。
 元老院への提言があったからだ。
 そもそも、スペイン戦役の最高司令官になることすら、資格年齢を満たしていなかった。凱旋式を挙げてしまっては、元老院を刺激するだけである。
 とはいっても、元老院への提言は、それ以上に刺激的であったのだけれども。

ハンニバル戦争終結

敵にやられて嫌なことは・・・・・

 ハンニバルはローマを急襲して、危機に陥れている。それを自分たちがやり返す。
 カルタゴ本国に攻め込めば、困ったカルタゴはハンニバルを呼び戻すに違いない。
 敵にやられて嫌なことは、敵にやり返せばよい―――――のだが、ローマの対ハンニバル方針は、補給を断ち、兵力を削る、持久戦で臨んでいたのだ。それをひっくり返そうというのだ。
 ローマ元老院議員「第一人者」となっていた、持久戦の提唱者ファビウスが苦言を呈す。
 カルタゴ本国に攻め込んだところで、ハンニバルがイタリアから退去する保証はない。まず、やるべきことはハンニバルをイタリア半島から追い払うことなのであって、カルタゴ本国を急襲することではない。
 ファビウスのいうことは正論だし、間違っていない。
 ハンニバルがイタリアから退去する保証はどこにもない。さらに、カルタゴ本国からの補給は、失敗続きだといえ、繰り返されている。しかも、この翌年には、ハンニバルの末弟マゴーネがジェノヴァに上陸する。
 とはいっても、ハンニバルがこもるカラーブリア地方に対する戦線も膠着していた。現状打開のためには何かをしなければならない必要も感じていた。
 元老院は、頑固ではあっても、頑迷ではなかった。現状認識能力と柔軟性は失っていなかった。
 といっても、スキピオが元老院から許可を得たのは
・行先はシチリア
・翌年ならアフリカに上陸してもよい
・シチリアで志願兵を募集すること
だけである。
 普通なら、とても受け入れられる条件ではない。しかし、スキピオはこの条件を飲んでシチリアに向かう。

ザマの会戦

 シラクサの僭主ヒエロンの死後、クーデターが起こり、シラクサはハンニバル側についた。クーデター後の政権を倒したローマは、シラクサの土地を没収していた。
 それを、どうやったのか分からないが、スキピオはシラクサ人に返還する。独断であったのだが、違法ではなかったようだ。
 これに感激したシラクサ人はスキピオに志願兵を出す。志願兵よりもありがたかったのは、シラクサの補給基地化だ。
 志願兵を集め、補給基地を手に入れたスキピオは地中海を渡り、北アフリカに上陸する。

 突如、現れたローマ軍にカルタゴは動顛する。
 戦争といえば傭兵に任せていたカルタゴは、戦争を知らない。危機に直面しても、実情がつかめず、現状が認識できない。
 それでは打開策など打ち出せるわけがない。
 とりあえず、傭兵を集めジスコーネに指揮をとらせ、ヌミディア王となったシファチェに援軍を要請する。
 しかし、ハンニバルから戦術を学んだスキピオにとって、ジスコーネとシファチェは敵ではなかった。
 海上戦でローマの補給船団を叩くか、籠城戦か、講和か、ハンニバルを呼び戻すか、方針を決められないカルタゴは、すべてを同時進行する。
 いずれにせよ、ハンニバルとマゴーネは、カルタゴ本国に召還され、ハンニバルのイタリア退去に成功した。
 スキピオの目標はこの段階で達成された。

 同時進行という形で進められていた講和交渉だが、スキピオは講和を結ぶことを考えいていたようである。ハンニバルをイタリアから退去させる目標は達成した。この時点での講和内容とザマの会戦後の内容は、条件が厳しくなっただけで、似たようなものである。
 あとから見直してみればというのは、ズルい見方なのかもしれないが、この時点で講和を結んでいれば、ザマの会戦後よりは緩い条件で講和が結べたのである。
 しかし、事故が起きる。地中海航行中のローマの補給船団が嵐に会い、カルタゴそばに避難する。これをカルタゴが奪ったのだ。
 スキピオはこれに抗議したが、これに気を良くしたカルタゴは講和など考えなくなった。ハンニバルにスキピオ討伐を指示する。

 今度は、ハンニバルが戦いたくなかった。
 スキピオに負けたシファチェは国を追われ、マシニッサがヌミディア王国を取り戻していた。ゆえに、ヌミディア騎兵はマシニッサとともにスキピオの手にある。
 シファチェの息子からの援軍は、到着が遅れていた。
 騎兵の不足―――――ハンニバルが得意としていた包囲殲滅戦が不可能になっていたのだ。
 ザマで対峙した両軍だが、奇妙なことになる。スキピオ率いるローマ軍がハンニバル流の布陣をし、ハンニバル率いるカルタゴ軍はローマ流の布陣をしていた。
 ハンニバルは、中央に戦象部隊を配置して、中央突破を図る。戦象部隊の突撃で混乱したローマ兵を叩こうとしていた。
 それに対したスキピオは、ローマ軍の重装歩兵隊を普段より隙間を広げて配置し、その間を軽装歩兵で埋めていた。
 カルタゴの戦象部隊の突撃が始まったら、軽装歩兵を重装歩兵の中に入れて間隔をとり、その隙間に戦象部隊を「通過」させる。戦象部隊の突撃を「かわす」ことで、戦力の「非戦力化」に成功したのだ。
 戦象部隊の突撃で混乱しているローマ軍を叩く予定だったカルタゴ軍だったが、ローマ軍が混乱しなかったので、迎撃される。
 それにしても、戦象部隊を叩くのではなく、「かわす」という手をどこで思いついたのだろうか。
 ファビウスがハンニバルと戦わなかったように、スキピオも戦象部隊と戦わないことにしたのかな、と考えてみたのだがどうであろう。
 ハンニバルがザマの会戦で敗退したことで、第二次ポエニ戦争が終結する。

 ハンニバルが実行した、包囲殲滅戦、敵の本拠地を急襲する戦略が有効だったことは、証明されている。スキピオも同じ手法でカルタゴ攻略に成功しているのだから、二重に。
 ハンニバルが失敗したのは、イタリア半島を急襲すれば「ローマ連合」が解体すると思ったところにある。
 ところが、離反したのはカプアのみ、シチリアも王の死後の混乱をついたに過ぎない。
 金で懐柔するか武力を行使するか。支配・被支配の関係で生きてきたカルタゴ人にとって、敗者であっても同化し、運命共同体を作り上げてきたローマ人の発想がなかったのだ。
 とはいっても、これは後世の我々が歴史を知っているから言えることであって、当時の地中海世界はカルタゴの考え方のほうが一般的であったのだ。
 そのことをハンニバルはローマとの講和を通じて、自分自身が体験することになる。
 カルタゴとローマの講和には、勝者と敗者しかなかった。
 復讐の感情に、スキピオはとらわれなかった。スキピオの結んできた講和条約に市民集会も賛成しているのだから、ローマ市民も復讐の感情にとらわれていなかったのだろう。
 望んでいたのは「平和」であって、復讐ではなかったのだ。
 それにしても、正義と非正義に分けていたら、ハンニバルはA級戦犯で裁かれていただろう。しかし、ローマは正義と非正義に分けるようなことはせず、よってハンニバルは裁かれていない。

戦争という、人類がどうしても超脱することのできない悪業を、勝者と敗者でなく、正義と非正義に分けはじめたのはいつ頃からであろう。分けたからといって、戦争が消滅したわけでのないのだが。

カルタゴ滅亡

 第二次ポエニ戦争後の講和条約は、マケドニアやシリアの講和条約と比較しても、大差はない。
 そのことから考えると、ローマはカルタゴも、マケドニアも滅ぼすつもりはなかったのだろうと思える。
 しかし、亡国の原因は、他国の攻勢からというよりも、自滅に求められることのほうが多い。

 ヌミディア王の勢力浸透に悩んだカルタゴは傭兵を集めだす。
 講和違反をローマに問われるが、穏健派のスキピオ・ナシカが調停に乗り出し、ヌミディア王をひとまず撤退させることに成功する。
 これをローマの弱腰と見たカルタゴは、今度はヌミディアに侵攻する。
 明らかな講和違反に、ローマの穏健派は発言力を失い、強硬派が台頭する。
 カルタゴ軍がヌミディア軍に負けると、カルタゴ第二の都市ウティカまでもがローマにつく。
 運が悪いことに、この時期ローマはギリシア問題でも悩んでいた。このことも穏健派の発言力を弱くし、強硬派の発言力を強くした。
 第三次ポエニ戦争勃発。前146年カルタゴは滅亡する。都市を破壊され、土を均され、塩までまかれた。

ローマの帝国主義

スキピオ裁判

 スキピオが結んだ講和条約をまとめると
・ローマの覇権を認めたうえで同盟国になること
・軍事力は自衛の水準にまで落とすこと
・自治権は認める
 カルタゴもマケドニアもシリアも、この方針で臨んでいる。
 ガリア人やスペイン人に対して別の方法で臨んだのは、彼らが小部族に乱立しており、講和交渉などできない相談だったからである。
 穏健なやり方は、相手が同じ水準で考えることができ、同じ方向を向いてくれなければ、かえってアダとなる。

 シリアとの講和条約後、一時受け取りという形で手にした500タレントの使途不明金で兄ルキウスが告発される。告発されたのは兄のルキウスだったが、弾劾されているのはスキピオだったのは明らかだ。
 告発側にとって500タレントの使途追及などどうでもいい。目的はスキピオの失脚である。そして、公金横領という疑いは巧妙極まりない。
 後年、スキピオにとっては全くの濡れ衣であったことが明らかになっている。マグネシア会戦後に軍団内でルキウスが大盤振る舞いした可能性は残っているにしても。
 そもそも、濡れ衣なのだから証拠がない。証拠がない告発なのだから、「証拠を提出できないことについて論ずるのみで、論告というよりも弾劾の演説だった」と塩野さんいうが、私から言わせれば、単なる「誹謗中傷」である。
 スキピオ裁判の結果、スキピオはローマを去り、リテルノに引きこもる。死後もローマ領内にあるスキピオ家の墓所の埋葬すら拒絶する。

「恩知らずのわが祖国よ、おまえにはわが骨をもつこともないであろう」
 救国の英雄にそのようなことを言わせてよいのであろうか?
 スキピオ裁判中、グラックスが発言を求めた。
「神々より守られて祖国のためにあれほども偉大な貢献をなし、共和国ローマでは最高の地位にまで登りつめた人物が、人々から感謝と敬愛の念を捧げられた人物が、今、被告席でさらし者にされようとしている。演壇の下に引きすえられ、彼に対する弾劾と非難を聴くように強制され、心ない少年たちの悪罵さえ浴びようとしている。
 このような見世物は、彼スキピオの名誉を汚す以上に、われわれローマ市民の名誉を汚すことになる
 グラックスの言葉は元老院議員を動かした。スキピオ裁判は中止になる。 
 私も、グラックスのような品位を手に入れたいものである。

 しかし、なぜ「名誉を汚す」ようなマネまでしてまでもスキピオを排除したかったのか。
 スキピオ中傷の首謀者であるカトーは、ローマの新思潮に対して心配したからである。
 ギリシア文化への傾倒、個人主義的英雄主義の風潮。
 しかし、最も怖れたのは、スキピオの「穏健な帝国主義」なのではないか。穏健な政策は、一歩間違えれば次の戦乱を呼ぶことになる。事実、カルタゴも、マケドニアも、講和条約を守っていれば滅ばなかったに違いない。講和を破ったのは彼らなのである。ローマが仕向けたわけではない。
 スキピオの排除に成功したカトーに同調するようなことはしたくはないのだが、残念ながらカトーの主張する危険のほうが的中してしまう。

マケドニア滅亡

 マケドニア王国の行動が侵略であるとして、ギリシアの使節団がローマに訴えに来る。
 第二次ポエニ戦役中、ハンニバルと同盟を申し込んできたマケドニアを、封じ込めてくれたのはギリシア同盟国である。さらに、ローマは同盟国を援助する責務がある。
 せっかく手に入れた平和なのに、なぜギリシアに出兵しなければならないのか、と市民集会も抗議する。しかし、第二次ポエニ戦争の発端がサグントから始まっている、と言われれば軍事加入もやむを得なくなる。
 第二次ポエニ戦争でハンニバル式の戦術を学習したローマ軍にとって、重装歩兵の力業で押すことしかできないマケドニアは敵ではなかった。
 圧勝だった。講和条約はカルタゴと同様のものを締結し、マケドニア王国は保全された。
 マケドニア王フィリップスは現状認識能力は持っていた。ローマの覇権を認めたうえでなければ王国は維持できないことを「頭では」理解していた。
 しかし、マケドニア王の矜持としてローマの覇権は「心では」認めたくない。
 現実認識能力と矜持の乖離が、頭と心の乖離が彼をナーバスにしていた。
 講和締結後、正夫人の子デメトリウスはローマでの人質生活を送る。人質生活といってもローマの子弟と同居し、遊んで学んで帰ってくるのだから、留学といったほうが適切である。これはローマが好んて使う手法なのだが、他国の要人の子弟と共同生活することで、ローマに好意を持ってもらおうというものである。デメトリウスは、すっかりローマ・シンパになって帰ってくる。
 妾腹の子ではあった第一王子であるペルセウスは、フィリップスのナーバスな心に付け込んだ。デメトリウスがマケドニアを売り渡そうとしている、とフィリップスに吹き込む。吹き込まれたフィリップはペルセウスは殺してしまう。
 こうしてペルセウスはマケドニア王国を相続した。しかし、相続したのは王国のみで現実認識能力は相続しなかった。
 ペルセウスはペルガモン王国に侵攻する。ハッキリとした講和違反にローマは軍事介入せざるをえなくなる。
 マケドニア王国は滅亡した。
 とはいっても、王国は滅ぼしたが、属州化するまでではないと思っていたのだ。四分割し、自治権を認めている。
 しかし、支配されるのに慣れ切っていたマケドニアにとって、自治権をもらっても使いこなす能力がなかった。

ギリシア制覇

 東地中海のヘレニズム諸国は、西のほうに全く興味がなかった。ローマとカルタゴの抗争中に介入しようとしたのが、直接領土を接していたマケドニアだけであった理由である。
 地中海のヘレニズム諸国からしたら、ローマとカルタゴが揉めているな―――――と眺めていたら、いつの間にかローマが強大化していたのだ。
 ギリシア中部のマケドニアとは北に国境を接するアエトリア人は、ローマとマケドニアが講和を結んだのが気に入らなかった、ローマにマケドニアを滅ぼしてほしかったのだ。
 ギリシア人の悪い癖なのだが、こういう時に他国に介入を依頼する。アエトリア人はシリア王アンティオコスを頼る。そして、アンティオコスもギリシア進出の好機とみる。
 ギリシアに上陸し、アエトリア人と合流したシリア王アンティオコスだったが、あっけなくローマ軍に敗れる。ハンニバル流の戦術を会得しているローマ軍は、ここでも圧勝した。
 エーゲ海の海戦でも勝利したローマ軍はアジアに渡る。ピティニア王に援軍を依頼したが拒否されたシリア王アンティオコスは、ここで諦める。
 シリアとの間で講和が結ばれた。カルタゴやマケドニアと同様に。スキピオ裁判で使われた使途不明金のネタは、この時のシリア王の賠償の即時払い分である。

 マケドニアを中心とするギリシアの地で、先王ペルセウスの庶子であるというフィリップスと名乗る男が、ギリシア人の反ローマ感情の中心になり始めていた。
 全くの偽物であったようだが、ギリシア人の反ローマ感情に火をつける。
 そこに第三次ポエニ戦争が起きる。ローマがカルタゴに向かっている隙に付け込もうとしたのである。
 前2世紀のギリシアは、自由と独立の意識は強かったが、それを現実化する能力に欠けていた。他国の軍事介入に頼るか、他国の危機に付け込むか。
 前5世紀のペリクレス時代のギリシアは、民主主義は輝いていたし、美術・建築・文学も輝いていた。しかし、前2世紀のギリシアは、民主主義も、美術・建築・文学も、輝きを失っていた。
 ローマ人は前5世紀のギリシア文化には傾倒していたが、現実の目の前にいる前2世紀のギリシアには軽蔑を向け始めていた。
 「穏健な帝国主義」の限界を感じ取ったローマの指導者は、反対の結果しか生まないことに苛立ち、硬化していく。軍事面での自信も加わる。

 3度目のギリシアへの軍事介入で、マケドニア王の庶子を名乗っていた男の反乱は鎮圧される。マケドニアは自治権を剥奪され、属州に格下げされた。

 コリントを訪問したローマの元老院議員たちが、コリント市民から無礼というしかない態度で迎えられるという事件が起きる。
 コリントにローマ軍が急派され、コリントは徹底的に破壊された。美術品は没収、住民は奴隷として売られ、すきとくわで地表をならされ、街そのものが焼失した。

 属州にはされなかったが、ギリシア人に冷水を浴びせるには十分だった。以降、ギリシアはローマの覇権のもとに安住することになる。
 自由と独立の意識の強かったギリシア人だったが、それを現実化する能力は持っていなかった。
 しかし、自由と独立を失ってしまった代わりに、安定が得られたところが皮肉である。