【読書】『ローマ人の物語 勝者の混迷[上]』06
前137年、ティベリウス・グラックスはスペイン遠征軍の会計検査官として派遣される。
通り道のトスカナ地方の農民が、エトルリア人ではなく、外国からの奴隷に占められていた。
スペイン派遣のローマ軍も、反乱を起こしたスペイン人の鎮圧どころか、敗北した挙句に持参物をすべて敵に渡して休戦するという屈辱まで味わう。
同時期に発生したシチリアの奴隷蜂起に対しても、派遣されたローマ軍は苦戦を強いられる。
ポエニ戦役を戦い抜き、ギリシアから小アジアにまで及ぶ覇権を築いたローマに、何かが起きていた。
グラックス兄弟の改革
原因は「中産階級の没落」と「失業者の増大」であった。
ローマの覇権の拡大は、イタリアの経済構造の変革をもたらしていた。
まず、属州となったシチリアから安価な小麦が入ってくる。イタリア半島では小麦から、牧畜業・オリーブ油・葡萄酒に転換した。
ローマ覇権の拡大は、市場も拡大した。安価な奴隷を活用した大規模農園が登場する。しかも、奴隷には兵役の義務はない。
一般市民は、兵役の義務を果たして帰国してみれば、価格競争で敗れる。農地を手放さざるを得なくなる。
子どもしか財産を持たないという意味で「無産階級」と呼ばれていた階級は、兵役が免除されていた。
一般市民の減少のため、該当資産額を下げてみたのだが、それでも無産階級が増え一般市民が減少する。構造が変わっていないのだから、傾向が変わらないのは当たり前なのだが。
以前なら、兵役にとられる階層ではなかった者たちが狩り出される。これが、ローマ軍団の質量ともに低下した原因だった。
富める者はますます富み、貧富の差は拡大する一方。
それに、失業は福祉では解決できない。失業者は「施し」を求めているのではない。「職」と「自らの存在価値」を求めているのである。
なにやら「古代ローマ」ではなく、現代社会のようなことを書いているのだが、本当に歴史は繰り返すのである。
そして、歴史が繰り返すものならば、答えは歴史の中にあるのだが。
兄ティベリウス・グラックス
現状を憂えたティベリウス・グラックスは、前134年に、護民官に立候補し、当選した。
目的は、無産者に落ちた人たちに農地を与え、一般市民として復活させることだった。
まず、国有地借用の上限を徹底させる。上限を超えた分は国家に返還する。これは公正を期しているのだから表立った反対できない。
無産者に土地を与えただけでは、いずれ農地を手放すに決まっている。自立できるまで助成金を出さなければならない。
助成金を国庫から支出するとした条項に、元老院議員から反対の声が上がる。といっても、表立って反対できなかった国有地借用の返還に反対するための口実だったのだが。
旧ペルガモン王国からの税収を財源にするとした法案には、良識派の元老院議員まで反対に回った。
ここにおいて、グラックスの提案は「元老院への挑戦」と受け取られてしまったのだ。
反対派も賛成派も多く集まりすぎてしまったために、翌年の選挙は秩序を守って進めることが難しかった。
事故が発生し、暴動につながる。混乱の中でティベリウス・グラックスは殴殺される。
弟ガイウス・グラックス
前124年、ティベリウスの弟ガイウス・グラックスは護民官に立候補して、当選する。農地法、小麦法、軍隊法、公共事業法、植民都市法と次々に可決する。
兄ティベリウスは自作農奨励だったが、弟ガイウスは農業ばかりではなく、経済振興の流れに乗ることで、失業者を減らそうと考えた。
兄の時と同様の反対が起きるが、さらに反発を招いたのは「市民権改革法」であった。これにより、イタリア人にローマ市民権獲得への道を開いた。
これには、元老院の良識派も強硬派も反対した。ローマ市民権の拡大は「ローマ連合」の解体につながる、元老院主導のローマ共和政への挑戦であると。
任期2年目、ガイウスは旧カルタゴの地に「ユノー植民都市」を建設する案を出す。
翌、前121年、旧カルタゴの地に建設する新植民地の投票場は、賛成派も反対派も集まっていた。
下役人のアンティリウスがグラックス支持の住民たちの間を通り過ぎようとしたとき、「悪しき市民ども、良き市民に道を開けろ」と言った。アンティリウスはその場で殺された。
アンティリウスの発言は暴言そのものである、と私でも思う。しかし、殺害してしまったのはやりすぎであった。ガイウスは敵に非難の理由を与えてしまったと、支持者を叱る。執政官オピミウスは暴力に対するには暴力しかないと市民たちを扇動する。
ローマ史上初めての「元老院最終勧告」が発令される。これにより、グラックス派の人々は「暴徒」にされてしまう。
グラックスの同志の一人で、過激な性格のフラックスの周りにグラックス派の人々が集まる。しかし、兵を率いた執政官オピミウスに鎮圧されてしまう。
フラックスとその一番上の息子は殺された。
ガイウス・グラックスは、テヴェレの川沿いの小さな森の中で遺体で発見された。自死であったと思われる。
兄ティベリウスの時と違い、弟ガイウスの時は、これで終わらなかった。
ガイウスとフラックスの首は、フォロ・ロマーノ演壇の上にさらしものになった。遺体は同志とともにテヴェレ側に投げこまれた。共鳴者は裁判なしの死刑になった。その数、三千といわれている。未亡人たちは喪服をまとうことすら反国家行為であるとして禁じられた。
マリウス
ヌミディアの後継者争い「ユグルタ戦役」で執政官になり、北からの蛮族の侵入を撃退したのは、マリウスであった。
現場からの叩き上げの軍人であったマリウスは、戦場にいるだけにローマ軍団の質量ともの低下を、ハッキリと理解していた。
マリウスは、兵を集めるのに、それまでの徴兵制ではなく、志願制に変えた。
マリウスが考えたのは、軍制の改革である。あくまでもローマ軍団の質量の回復を考えてのことだった。政治的な意図はなかった。
しかし、これが結果として、グラックス兄弟が解決できなかった「失業者対策」を解決してしまったのである。
ローマ軍団の質量ともの低下は元老院も困っていた。しかも、元老院体制に挑戦しているわけでもない。ゆえに、元老院が反対することもなかったのだ。
蛮族の撃退後も続けてマリウスが執政官に選ばれたのは、今度は戦争のためではない。志願兵をどうするかの問題が発生したからだ。
戦争は終結し平和な時代に戻った。しかし、平和な時代は志願兵に「失業」を意味する。
この問題には、マリウスも頭を痛めていた。長年付き従ってくれた兵士たちに仕事を与えたいのは、マリウスも同様だったからである。
あくまでも軍人であり、政治家ではなかったマリウスは、この種の問題を解決する能力はない。そこで護民官サトルニヌスがこの問題を受け持つのだが、サトルニヌスはグラックス兄弟の崇拝者だった。
またしても「財源」が問題になり、元老院と対立する。
元老院と護民官の対立の間に立って調停する能力は、マリウスにはない。元老院からも、市民からも急速に支持を失う。
同盟者戦役
ハンニバル戦争までは、ローマ市民は兵役の負担のわりに権利は少なかった。他民族からすれば、わざわざローマ市民権を獲得する理由はない。
しかし、戦後、戦利品の分配が不平等になった。ローマ市民兵だけで取ってしまう事態が起きる。
また、属州からの直接税収入があるためローマ市民の直接税が全廃になった。反対にローマ連合の都市国家では直接税の負担がある。
ローマ市民のメリットが増えてしまったため、ローマへの移住者が増えた。はじめに音を上げたのは、過疎化した市町村だった。
さらに、ローマでは解放奴隷でもローマ市民権を獲得できるのに、「ローマ連合」の加盟国市民はローマ市民権を獲得することはでできないことも拍車をかける。
ガイウス・グラックスがローマ市民権を拡大しようとしたのはこれが理由である。また、マリウスの志願兵システムなら、ローマ市民権の有無は問われない。しかし、平和な時代に戻ればローマ市民権の問題も復活する。
とはいえ、ハンニバル戦争を勝利したことで、元老院は「ローマ連合」と「元老院」が強力なシステムであると信じ、それを堅持しようとしている。
前91年、マルクス・リヴィウス・ドゥルーススが護民官に選出されていた。ドゥルーススは「ローマ連合」加盟都市の市民にもローマ市民権を与える法案を提出した。しかし、ドゥルーススは殺害される。
これがとどめの一撃だった。
前90年「同盟者戦役」勃発。明らかな加盟国の不利に「ローマ連合」が武器を手にして立ち上がった。ハンニバルの狙ったローマ連合解体がここにきて実現するかに見えた。
塩野さんは「長年連れ添った夫婦の妻のほうが縁切り状をたたきつけたのと似ていないでもないが」と例えているのに笑ってしまったが、ローマ元老院はうろたえてオロオロするばかりの夫ではなかった。
現実認識能力とバランス感覚は失われてはいなかった。気が付くのが遅かったとしても。
元老院は防衛体制を敷く一方で、執政官ルキウス・ユリウス・カエサルは「ユリウス市民権法」を提案する。同盟者たちにローマ市民権取得を認める法だ。もちろん、武器を収めることが条件だが。
今度こそ反対されずに可決された。
ローマ連合は消滅した。ハンニバルが狙ったように解体されて分裂したのではなく、全員がローマ市民権を得ることによって。
いかなる強大国といえども、長期にわたって安泰でありつづけることはできない。国外には敵をもたなくなっても、国内に敵をもつようになる。ハンニバルの予言は半ば的中し、半ば外れる。
外からの攻撃は寄せつけない眼瞼そのものの肉体でも、体の内部の疾患に、肉体の成長についていけなかったがゆえの内臓疾患に、苦しまされることがあるのと似ている。―――ハンニバル―――
リヴィウス著『ローマ史』より
肉体の成長に体の内部がついていけなかったのは事実だが、ローマは体の内部の成長を始めたのである。