【読書】『ローマ人の物語 勝者の混迷[下]』07
ポントス王ミトリダテスは、地中海世界の覇者ローマに、挑戦状を叩きつける。
ビティニアの後継者争いに介入して自派の者を王位につける。カッパドキアの王位にも自分の息子の一人を就ける。
追放されたビティニアとカッパドキアの人々がローマに訴え出る。一度は王位を返還したミトリダテスだが、「同盟者戦役」の勃発をみて、再度動き出す。
ビティニア、旧ペルガモン領に攻め込み、ギリシアには「ローマの圧政から解放する」と宣言し、反ローマ感情を掻き立てる。
元老院体制のメンテナンス
第一次ミトリダテス戦役
前88年ルキウス・コルネリウス・スッラは、執政官に立候補し当選する。対ミトリダテス戦役の志願兵を募集する。
スッラにやらせたくないマリウスは、護民官スルピチウスと手を組み、市民集会の決議にかけ、スッラから指揮権を奪い取る。
奪われたものは奪い返す。スッラはローマを脱出し、編成中の志願兵を従えてローマに進軍する。
まさか現役の執政官がローマに進軍するはずがない―――――不意を打たれたスルピチウスはとらわれて殺される。マリウスは北アフリカまで逃げた。
スッラは、マリウスとスルピチウスの一派を国賊として追放。翌年の執政官、オクタビウスとキンナには法の遵守を求めただけで、ギリシアに向かう。
キンナのことは信用していなかったようだが、それでもギリシア行きを決めたのは、これ以上、ミトリダテスを放置しておけなかったからだ。
スッラがギリシアに向かうと、キンナが武力行使に出る。北イタリアから戻ってきたマリウスと組み、ローマを武力制圧する。
逃避行から帰ってきたマリウスの復讐は過激だった。スッラ派に連なる者たちを奴隷の一隊を使って殺しまくった。殺戮終了後、その奴隷の一隊も殺してしまった。
前86年マリウスとキンナが執政官に選出される。それで安心したのか、マリウスは死亡する。キンナの独裁が始まった。
ギリシアに渡ったスッラは、ローマの状況を知っていたが、動揺しなかった。ミトリダテス戦役の終結を優先する。
前86年カイロネイアで対したミトリダテスの歩兵10万騎兵1万、スッラは歩兵2万5千騎兵5千だったが、結果はミトリダテスの戦死者と捕虜あわせて10万以上に対して、ローマ側の戦死者は12名と、圧勝だった。
重装歩兵の数に任せて押しまくるだけのミトリダテスは、ポエニ戦争でハンニバル流の戦術を体得していたローマ軍の敵ではなかった。
へレスポントス海峡を越えて再び対戦するが、もちろんスッラの圧勝。
これだけでギリシア民族の頭を冷やすのには十分だった。
困ったことになったのは、キンナの派遣したローマ「正規軍」が小アジアに上陸してしまったことだった。
ローマ「正規軍」のフィンブロスもミトリダテスと戦うが、フィンブロスも圧勝する。ミトリダテスは、フィンブロスのローマ「正規軍」とスッラのローマ「国賊」軍と、二つの敵を抱えてしまったことになる。
ミトリダテスは強い方と講和を締結することを考える。すなわち、スッラである。
スッラも二方面に敵をもっている。ミトリダテスは講和条件の値切りを狙うが、スッラにその手は通用しない。
ポントス王ミトリダテスの全面撤退。ビティニアとカッパドキアの王も復位した。
フィンブロス軍と対したスッラは、同じローマ軍と戦うことを選ばなかった。
先に陣営を整えていたフィンブロス軍の前で、ひどくのんびりと作業を始めた。それを見て油断したフィンブロス軍の兵士たちは、作業中の同国人に声をかける。同国人なのだから声をかけられれば応じるし、何なら作業も手伝い始め、それなら食事も一緒に・・・・・という流れで、フィンブロス軍の兵士たちは、スッラ側に流れ込んでしまった。
気が付いたころには、フィンブロス軍は自然消滅していた。スッラの使者がローマに帰るための船を用意すると伝えてきたが、どの面下げて帰ったらよいかわからないフィンブロスは自死を選んだ。
イタリア帰還
小アジアの問題を片づけたスッラは、ギリシアまでは戻ったが、そこで動きを止める。
講和を結んだとはいえポントス王ミトリダテスが、いつ裏切るかわからない。事実、ミトリダテスは、何度も挙兵する。
スッラはギリシアから動かないことで、ポントス王ミトリダテスと、ローマのキンナと、両方に圧力をかけた。先に動いた方と戦えばよい。
先に動いたのはローマのキンナだった。ギリシアに出兵するために、自ら志願兵を集めた。しかし、キンナには軍団総司令官の経験はない。
人は集めてみたものの、規律も秩序もなければ、混乱するだけである。そして、混乱した群衆を統率する能力は、キンナにない。群衆の中にキンナは消えた。
キンナの死後、スッラはイタリアに渡る。迎え撃つローマ軍は、スキピオ・ナシカは早々に降伏したが、ほかの四軍団は、スッラの復讐を恐れているから必死だった。
それに、ユリウス市民権法とスルピチウス法でローマ市民権を得た「新ローマ市民」は市民権を失いたくなかったのだ。スッラは、新ローマ市民の市民権を認めると布告したが、あまり効果はなかったようだ。
ブリンディシからローマまで、激闘の連続で、しかも2年かかる。
元老院体制のメンテナンス
ローマ帰還後、スッラの反対派一掃作戦が始まる。
反対派は、裁判なしの死刑と財産没収か、殺されなくても財産は没収された。そして、子孫に至るまで公職追放。
そして、スッラはローマ史上初めての、任期無期限での独裁官に就任した。
とはいえ、スッラは決して革命家ではなく、あくまでも保守派だった。元老院主導のローマ共和政の修復、あるいは再強化。政策を実行する権力を求めたから独裁官に就任したにすぎない。
スッラが、単なる守旧派ではなかったことは、ユリウス市民権法とスルピチウス法を破棄しなかったことから明らかだ。その方が現実的であったからに過ぎないにしても。
しかし「ローマに敵対行為はしない」という項目には目を付けた。スッラを迎え撃ったローマ「正規軍」に参戦していたエトルリアと南イタリアの多くの部族は、ローマ市民権を剥奪された。
元老院議員の定員は300人から600人に倍増された。これは騎士階級(経済階級)を元老院に取り込むことで、護民官と平民階級に対抗するためだった。
会計監査官、法務官、執政官の資格年齢を定めた。実務経験豊富な人材を元老院に送り込むことで、将来の質の向上をはかる。
属州法を改革し、属州総督は任期一年とし、派遣先は元老院が決めるとも定めた。また、ルビコン川からメッシーナ海峡に至るまで、イタリア半島内に軍隊を伴って入ってはならない、と定める。
自分自身がローマ進軍を実行していたから、その弊害も分かっていた。ローマ軍団の私兵化と、軍事力の抑止を狙ったのだ。
護民官経験者にほかの官職への選出は不可と定める。政治キャリアを目指す人材は会計監査官や法務官などといった他の官職を選ぶことになる。優秀な人材が護民官になることを妨げることで、護民官制度の将来の芽すら摘んだ。
そこまで決めたところで、スッラは独裁官を辞任した。少数指導の元老院体制を信じていたスッラにとって、独裁官のままでいることはできなかった。
スッラはローマの諸問題を正確に認識していた。ミトリダテスをはじめとした東方問題にしても、ローマ元老院の強化にしても、平民階級の弱体化にしても。
正確に問題を把握していれば、適切な処置は打てる。その点においては、スッラは正しかった。
スッラの限界は、元老院指導制から脱出できなかったことにある。
ローマが、イタリアの一地方都市であるか、その延長線上にあれば、スッラの考えは正しかった。
問題は、ローマが強大化しすぎてしまい、イタリアどころか地中海世界の覇者になっていたこと、だった。
なし崩しにされるスッラ体制
反元老院体制派を叩き潰し、その芽すら摘むことに、スッラは成功していた。よって、反元老院派にも、護民官を含む平民派にも、人材はいなかった。
レピドゥスは、スッラの独裁官時代は「親スッラ派」として振舞うが、スッラの独裁官辞任後に、スッラの非難を始める。このような人物に従う者は少ない。反スッラで挙兵するが、またたく間にポンペイウスに鎮圧される。
セルトリウスは反スッラで挙兵していたが、スペインに逃れていた。そこに、レピドゥスの残党が合流する。
スペインでのセルトリウス問題が無視できなくなる。セルトリウスも問題だが、放置しておけば、東方ではポントス王ミトリダテスが動き出すからだ。
セルトリウス戦役
セルトリウスは、会戦での対決の不利を悟り、ゲリラ戦に切り替えた。そして、スペインの地勢はゲリラ戦に向いていた。スペイン人の信頼まで勝ち得ていていたセルトリウスに、ローマ正規軍は苦戦する。
しかし、元老院議員に総司令官として指揮をとれる人材がいなかった。300人から600人に定員が増えたのにもかかわらず。
手を挙げたのはポンペイウスだが、ポンペイウスは元老院議員の資格年齢を満たしておらず、元老院議員でもなく、このような場合に必要とさせれる軍団の絶対指揮権も与えることはできない。
そうはいっても、ほかに人材を見つけられなかった元老院は、ポンペイウスに絶対指揮権を与えるしかなかった。
イタリアからの補給線を構築するのに1年、スペインに渡ってから2年で、ポンペイウスはセルトリウス戦役を終結させた。
輝かしい戦果を挙げたのだから、ポンペイウスはローマでの凱旋式の挙行許可を求める。そして、執政官就任も求める。
能力と実績には全く不足していなかったポンペイウスだが、スッラの定めた資格年齢を満たしていない。元老院は渋る。
ポンペイウスは、軍隊を率いてルビコン川を越える。
ローマ進軍、再び
イタリア半島内では「スパルタクスの乱」が起きていた。鎮圧したのは、マルクス・リキニウス・クラッススだった。
クラッススは、スッラの追放者名簿に名を連ねた人の没収財産をたたき売って儲けていた。また、ローマで火事を起こした家を、叩き値で買収していた。
品性の欠けた金儲けで、資産は築けても、人気は築けない。人望があるはずもない。
よって、クラッススは全く人望がなかったのだが、自分に人気がないことに気がつける程度の現実理解度はあった。
仲の悪かったポンペイウスのローマ進軍を見て、それなら自分も執政官にと考える。しかし、立候補しても選出されるはずがないことも理解していた。
ポンペイウスとクラッススは、手を組む。
北からポンペイウス、南からクラッススに「ローマ進軍」をされては、元老院は彼らの要求を呑むしかなかった。
ローマの覇権は地中海世界全体に広まっていた。それは、戦線の広域化と長期化につながっていた。
戦線の広域化は、一年交代の徴兵制より、職業軍人である志願兵制のほう効率がよい。志願兵は戦地で戦い続けるのだから、発言力が高まる。
また、戦略の効率化を図って指揮官も戦地に留まらせ続ければ、兵士と指揮官の心理的距離も近くなる。
こうして志願兵は私兵化していく。
市民集会の声を集めるための護民官クラスの人材がいなかった。市民集会の声をまとめたのは、元老院の良識派ガイウス・アウレリウス・コッタだった。
護民官経験者に他の官職の選出が認められた。
スッラによって没収された財産は、私財にされていたのだが、それを国庫に納入するように求める。スッラにより国賊とされていた人の名誉も回復された。スッラによってローマ社会から排斥されていた人々に、社会復帰を認めたのだ。
執政官になったポンペイウスとクラッススも、護民官の権威と権力の完全復活を認めた。
また、陪審員制度を改革した。元老院階級、騎士階級(経済階級)、平民階級に、三等分された。
属州に派遣された総督が不正を行った場合、任期終了後に属州民が元老院に訴える権利があった。とはいえ、訴えたところで被告は元老院議員だし、陪審員も元老院議員では、原告の属州民が敗訴するに決まっている。
陪審員制度の改革は、それまで泣き寝入りするしかなかった属州民に希望を与えた。
アウレリウス・コッタにしても、ポンペイウスとクラッススにしても、ローマ社会の要請に応えたに過ぎない。
しかし、平民階級の声に任せたままにしてしまうと、いずれは混乱し、乱世を束ねる強力な指導者の出現を許す。それでは王政である。
また、ペイシストラトスのもとで絶頂を迎えたアテネの民主主義は、ペイシストラトスの死後、衆愚政に落ちた。
王政になることも防がなければならないが、衆愚政に陥ることも防がなければならない。スッラが少数指導制の元老院体制を強化を考えたのは、ここにある。
しかし、少数指導制の元老院体制は、ローマが地中海世界の覇者になってしまったたがゆえに、ほころびを見せ始めていた。
第二次・第三次ミトリダテス戦役
第一次ミトリダテス戦役の際、小アジア行きの船を調達する任務を課されたのは、ルキウス・リキニウス・ルクルスであった。スッラのローマ帰還の際に小アジアの後事を託されていた。
前73年ルクルスはキリキアの属州総督として赴任する。セルトリウス戦役とスパルタクスの乱をみて、またしてもポントス王ミトリダテスが動く。とはいっても、迎撃したルクルスが圧勝したのは言うまでもない。
懲りることがないといえばいいのか、執念深いといえばいいのか、いや、初志貫徹といえばいいのか、ポントス王ミトリダテスは諦めない。アルメニア王と同盟を結び、共闘を依頼する。
アルメニアに渡ったルクルスだが、アルメニア軍にも圧勝する。軍勢はカスピ海にまで達する。
自分が優秀であると信じ、自分のやることが正しく、そして自信もあるルクルスは、話せば分かると信じていた。しかし、人間は理だけで動いているわけではない、情でも動いている。その面に配慮しなかったことがスッラとの違いであった。
兵士に対して、充分な量の報酬を支払ったと思っていたルクルスだが、兵士たちはそう考えなかった。ルクルスは私腹を肥やしていると思い込むようになる。ただ、戦端を開けばルクルスが圧勝してしまうからついていっただけに過ぎない。
戦利品を強奪するローマ兵士が現れるに至って、ルクルスは撤退を決める。しかし、撤退するといっても一兵も失わなかった
属州には直接税の支払い義務があるが、何かと支払いの滞ることがあるのも人間社会の常である。属州の徴税請負業者は、支払いの滞っている者に対し高利をむさぼることで利益を得ていた。
属州総督ルクルスはこれを革める。借金に苦しむ属州民は姿を消した。属州民を味方につけることには成功したルクルスだったが、逆に徴税請負業者を敵に回す。徴税請負業者は騎士階級(経済階級)だった。
護民官ガビアヌスは、ルクルスを解任してポンペイウスを代わりにすえる法案を市民集会に提出する。ルクルスによって損をしたと思っている高利貸しの騎士階級も賛成する。
ルクルスの撤退後、ミトリダテスは復帰していた。
ミトリダテスが何度も復帰できるのは、アルメニア王と共闘しているからである。そうであるならば、アルメニア王との仲を割けばよい。それには、アルメニアの内紛を待つか、東方の隣国パルティアを動かすか、だ。
ルクルスがパルティア王との同盟できなかったのは兵力が少なかったからである。逆に、ポンペイウスには充分な兵力がある。
ローマとパルティアが同盟したことで、アルメニアの国情が怪しくなる。本国が不安になっては、アルメニア王もミトリダテスやローマ軍どころではない。アルメニア王ティグラネスはミトリダテスを捨て、ポンペイウスと講和をする。
アルメニア王に見捨てられたミトリダテスはコーカサス山中に逃げ込まざるを得なくなる。そこに、息子ファルナケスが反旗を翻し、ポントスの高官たちも、王を捨てる。
長年ローマを騒がしてきたミトリダテスが自死することで、三次に渡ったミトリダテス戦役が終結する。
地中海世界に平穏は戻った。
しかし、ローマの覇権が地中海全体に及んでしまったがゆえに抱え込んでしまった問題までは、解決していなかった。