【読書】『正しい恨みの晴らし方』【ネガティブ感情と上手く付き合う】
私たちには「恨み」「妬み」「羨み」「嫉妬」などの、感じたくもないネガティブ感情がある。
なぜ、そんな感情を持たなければならないのか?
本書は、心理学と脳科学の角度から切り込む。
両者はともに心を解き明かそうとする学問だが、心理学は「行動」を、脳科学では「神経」を、指標として扱うそうだ。
- 「恨み」「妬み」「羨み」「嫉妬」などのネガティブ感情は、持っていたほうが生存率が上がるために、必要な感情
- ネガティブ感情を排除するのは不可能
- 意識的にコントロールする方法を身につけること
ネガティブ感情
恨み
些細な「怒り」であれば、知らないうちに気にならなくなる。しかし「恨み」となれば話は別。
自分を怒らせた出来事を何度も思い出し、そのたびに怒りに駆られることを、心理学で「侵入思考」と呼ぶ。
繰り返し考えて、いろいろと思いをめぐらすことを、「反すう」と呼ぶ。
「恨み」とは、怒りの「侵入思考」と「反すう」が組み合わさったもの、という考え方ができる。
アメリカの心理学者ジェームズ・アヴェリルは「失われた自尊感情の回復」が怒りの目的であるという。
こうした考え方に沿うならば、恨みを感じた後にも、傷ついたプライドを回復させるような行動を取りやすくなる。
それは、「仕返し」あるいは「見返し」となってあらわれる。
しかし、仕返しが、相手に同じような痛みや苦しみを感じさせるとは限らない。見返しも、成功するとも限らない。相手の鼻を明かせるかどうかとも別問題。
それに、恨みの対象となっている当の本人は、恨まれている自覚に乏しい。
そもそも、自分を軽視した相手に認められなければ、傷ついたプライドが回復しない、というのも、おかしな考え方です。
なぜなら、相手に執着し、振り回されている状態から脱していない証だから。
ドイツの哲学者マックス・シェーラーは、「報復」と「復讐」は異なるといいます。やられたらすぐにやり返すのが「報復」。すぐにはやり返さずに、色々と計画を練ってやり返すのが「復讐」だという。
心理学では、怒りに駆られて誰かに対して報復するような行動を「反応的攻撃」と呼びます。一方、攻撃を手段として用いることを「能動的攻撃」と言います。
いずれにせよ、私たちは傷つけられると、報復にせよ復讐にせよ、なんらかの形で仕返しを願います。
誰かが不幸になっているのを見て喜ぶという感情を、心理学では「シャーデンフロイデ」(傷がついたよろこびというドイツ語)と呼ぶ。日本でいう「ざまを見ろ」「いい気味」と同様、他人の失敗や不幸をうれしいと思うこと。
勧善懲悪もののドラマは、仇が自業自得で不幸になるの様子を、観たり読んだりして喜びを感じている。
しかし、実際のところ、恨みを晴らすために誰かを傷つけて悦に入るというのは、コストもかかりますし、リスクもあります。だからといって、相手を見返すチャンスはそうそう訪れるものでもありません。
ですから、他人の不幸を利用したエンターテイメントによって少しでも留飲が下がるのだとしたら、それこそ、まさに「正しい恨みの晴らし方」の一つといえるでしょう。私たちは、期せずして、自分の恨みを誤魔化す術を知っていたのです。
妬みと羨み
心理学では、羨みに近い妬みを「良性妬み」、ネガティブな恨みを「悪性妬み」という風に分けて考えるのが研究のトレンド。
自分の持っていないリソース(資源)で、他人が持っていて、それを自分も欲しいと思っている。
その時にどうするか。
努力に代表される「建設的な行動」をとるか。
何もしないで諦める「回避的な行動」をとるか。
相手の悪口を言いふらすような「破壊的な行動」とるか。
「悪性の妬み」は、うまく対処することができないままで放置しておくと、誰かを中傷したり、恨みに変化したりと、数々のマイナスの効果があると考えられている。
一方、「良性妬み」は向上心の礎になるとも考えられている。
そうであるならば、「妬み」を「羨み」と考え、いつでも良性の妬みを感じたほうがいい。
ところが、ヒトがそうなっていないのは、他者の幸福が公正なものであるかという判断が、きわめて主観的なものだから。
アメリカの心理学者スーザン・フィクスは、何らかの集団に属しているとみなされた他者に対して、私たちは色眼鏡で見やすく、その結果さまざまな感情や行動が生じやすくなることを、ステレオタイプ内容モデルで説明している。
このモデルでは、集団に対する認知(固定観念)、感情(偏見)、行動(差別)で統合されている。
例えば、累進課税によって裕福な人が絞り取られていることを知り、留飲を下げている。
この考え方に倣えば「公務員バッシング」も説明ができます。
しかし、冷静に考えれば、不祥事を起こす人は、民間企業にも存在する。民間企業にも「給料泥棒」と言いたくなるような人もいます。
公務員だから不祥事ばかり起こしているわけではなく、真面目に仕事をしている人の方がずっと多いのです。公務員だって税を払っています。
公務員に対する私たちの眼差しは、ステレオタイプ内容モデルでのお金持ちに対する偏見とベクトルが等しくなります。
ナチスドイツのユダヤ人迫害も、ドイツ人のユダヤ人に対するステレオタイプを、結果としてナチが利用したものだと考える研究者もいます。
心理学では「上方比較」と呼ばれるのは、自分にとって大切なもので、相手の方が優れているという状況を察知しているからです。その時点で、自分の評価は相手よりも劣っていると認識され、プライドが傷つきます。
自分のプライドを傷つけた人が勝手に不幸になってくれると、自分のほうがマシだと思う。これを「下方比較」と呼ぶ。
まさに「他者の幸福は自分の不幸、他者の不幸は自分の幸福」。
ただ、こうした気持ちは、他人に簡単に知られるわけにはいきません。なぜなら、妬んでいるのはその人の勝手な都合だから。
恨みの場合、逆恨みであったとしても、自分が不当に傷つけられたことを強く主張できる。
しかし、妬みは違う。あくまで自分と相手を勝手に比べて、相手の方が優れているのが不公平だと駄々をこねているにすぎない。
私たちは、そんな己の非力さを、認めたくないがために、嫌みを言ったり誰かを傷つけてしまったりすることがある。
気をつけたいのは、自分が生み出した妬みの操り人形になってはいけない、ということ。ネガティブ感情に囚われて自分を見失うのは避けたいところ。
妬み感情があることで、ヒトは「できるだけ多くのものを手に入れたい」という”絶対評価”でなく、「『周囲の個体と比べて』より多くのものを得る」という”相対評価”で行動している。
本来はネガティブ感情である妬みが、向上心や社会活性化に寄与しているのです。
そう考えれば、不快な感情である「妬み」には、人間にとって重要な意味もある。
悪性妬みの「妬み」を良性妬みである「羨み」に変え、「建設的行動」を選択する。
そうできれば、好ましいものではないと思い込んでいた「妬み」が、自分を成長させてくれるものに役立ってくれるのです。
嫉妬
妬みは、自分が持っていないものを持っている人に対する「自分もそれが欲しい」という願望を中核としている。
それに対し、嫉妬は、自分が持っているものを失うかもしれないということを察知した「不安」「怒り」に根差した反応。
ただし、嫉妬は、「モノ」というより、「相手との関係」にまつわるもの。
よって、嫉妬しているということは、それだけ相手が重要であるということを知らせてくれるサイン。
逆に、嫉妬しないのであれば、相手が重要ではないということ。
はたして、正義なのか?
ヒトは、集団で生活することで生存率を上げてきた。
集団で生活するには、ルールを守り、協力してなんらかのコストを払わなければならない。
ところが、ルールを守らず、コストも払わない「フリーライダー」が存在する。ゆえに「フリーライダー」を排除しなければ集団は維持できない。
ヒトの脳機能には、フリーライダーを見つけ出すための「裏切り者検出モジュール」と排除するための制裁行動「サンクション」が備え付けられている。
ヒトが生存する上で、そして集団を維持するうえで、「裏切り者検出モジュール」と「サンクション」はよく考えれた本能といえる。
しかし、残念ながら、本能も間違った方向に進むことがあるのです。
いじめの正当化
学校では「いじめ」、会社では「ハラスメント」、家庭では「虐待」と呼ばれていますが、これらはすべて同じベクトルの攻撃です。以下、文章上「いじめ」で統一して省略。
厄介なのは、いじめの理由について、加害者側がそれほど深刻に考えていない点です。いじめの被害者にも非があるという認識の上で、いじめを正当化している。
直接、手を下さずにいじめを黙認し、容認する人も、罪悪感もないばかりか、責任も取らなくてすむ立場でほくそ笑んでいるのですから、始末に負えない。
しかし、私たちがこの始末に負えない立場に立たないと、一体誰が断言できるのか。勧善懲悪物のテレビドラマやゴシップに嬉々として群がる人たちと、いじめという名の制裁を見守る子どもたちとの間には、一体何の違いがあるのか。
正義に反することをした者に対して、それなりの制裁を受けるのが当然だ、と思っている人が大勢いる。
自分自身は損害を全く被っていない、傷ついてもいない、その行為を行った人となんの面識もない。にもかかわらず、怒りに駆られて抗議の声を上げる。
私たちは、多かれ少なかれ、不公正な状況には怒りを覚える。
そうはいっても、不公正だと思う根拠は、あくまでも自分にとっての正義に反している「主観的不公正」であることが多い。
社会通念としての正義に反している「客観的不公正」と照らし合わせていないことが多い。「客観的不公正」というのは、法律に反してるとか、しっかりとした根拠がある場合。この場合の怒りは、義憤とも呼ばれる。
しかし、「主観的不公正」によって生じる怒りの別名は「妬み」。そして、個人の勝手な妬みも、みんなにシェアされれば大義名分を与えられ正当化される。
多くの人からお墨付きをもらっているのだから、大手を振って妬みを攻撃として表すことができる。
「正しさ」で鈍る「正しさ」
私たちは感情だけで動いているわけではない。何らかの考えがあって、行動するかどうかを決める。
お仕置き、戒め、義憤という口実のの下に行われる「道徳的正当化」は、自らの行為が攻撃的だとわかっていても、間違った相手を正すという目的の良さが手段の悪さを上回るなら、迷わず実行に移せる。
そこに、自分たちがしていることは、他と比べれば酷くはないと高を括ることによって、他人を傷つけることを厭わなくなる「都合の良い比較」が加わる。
「道徳的正当化」と「都合の良い比較」から言えることは、誰かを傷つけるのに悪意など必要ないのです。
むしろ、「正義」の方がヒトを傷つけるのに役立ってしまっている。
自分の正しさに固執すればするほど、私たちは知らず知らずのうちに、いじめに手を染めてしまうかもしれないのです。
ですから、私たちは、自分の中の正しさにこだわりすぎないことも大切なのです。なぜなら、私たちが正しさと呼ぶものは、状況や立場によって様相がガラリと変わるのです。
私(注:中野信子さん)は、社会正義ほど恐ろしいものはないと考えます。個人的には、お金が欲しいという欲求を肯定して行動できる人の方を、社会正義を標榜して他者に制裁を加える人よりは信頼できると思っています。
スケープゴート現象
災害、事故、戦争など、ヒトは明確な原因をみつけるように努力しようとする性質を持っている。
それは、次に同じ事態が起こった時に同じダメージを受けることを回避しようとして、原因を何かに帰属し、その原因を回避する行動を取るため。
ゆえに、ヒトはどこに責任の所在があるのかわからないという状態を極端に嫌い、ストレスを感じるようにできている。
リスク回避と原因究明。決して間違った考えではないのですが、実際には原因を特定しにくかったり、不可抗力であったりする場合もある。
原因不明であったり、不可抗力であったりする場合、心理的にストレスを感じる。その時に、スケープゴートを探そうとする。
スケープゴート現象では
- 集中的に他の特定の個人や集団に向けられる
- 攻撃の量も強さも尋常ではない
- 非難や攻撃の対象が正当なものかきちんと確かめられていない
- そのような攻撃を加えることの正当性も、吟味されているわけでもないの
という特徴がある。
企業が不祥事を犯すと、トップが引責辞任することで問題解決を図ろうとします。しかし、冷静に考えれば、「問題解決」と「引責辞任」は別の問題である。
企業に本質的な問題があるのなら、それを防ぐためにどうするか、再発防止策をどうするか、が本来やらなければならないことのはず。
トップが引責辞任することでうやむやになってしまっては、原因究明が疎かになってしまいます。
スケープゴート現象を無視できるのであれば、トップは続投して問題解決に取り組むのが最も合理的な方法。
しかしながら、日本の民衆がそこまで合理的な思考ができるほど、成熟していて自分をコントロールができる人々かというと、とてもそうとは言えないというのも現状です。
有名人に対して大衆が執拗にバッシングするという現象も、スケープゴート現象における投影に相当する。
不快な感情の正体を冷静に分析するというプロセスを、バッシングに参加した人は回避しています。
妬み感情の面白い機能の一つで、攻撃している相手をみると、妬み感情を抱いている人の欲求がまるわかりになる。
だからこそ、人々は妬みという感情を隠そうとするのだけれど。
うまく付き合う
「恨み」「妬み」「羨み」「嫉妬」などのネガティブ感情は、持っていたほうが生存率が上がるために、必要な感情です。
よって、ネガティブ感情を排除するのは、不可能。
そうであるなら、意識的にコントロールする方法を身につける、しかないのです。
「恨み」とは、怒りの「侵入思考」と「反すう」が組み合わさったもの。
傷ついたプライドを回復させるような行動を取りやすくなる。
しかし、恨みに基づいた行動によって、相手を見返せるかどうかはわかりません。相手にこだわりすぎているだけなのかもしれません。
うまく誤魔化す術を身につけておきたいところです。
「妬み」と「羨み」は、悪性の妬みと良性の妬みです。
誰かを妬んでいるとき、何かしらの欲求のサインだと気づきましょう。
「破壊的な行動」をとってしまい、誰かを傷つけてしまっては、自分が問題行動を起こしてしまいます。
とはいっても、「回避的な行動」をとってしまえば、何にもなりません。
「妬み」を「羨み」に変え、「建設的な行動」を選択できれば、自分を向上させるキッカケになります。
嫉妬は、相手との関係が重要であることを知らせてくれるサイン。
嫉妬を感じたとき、「破壊的な行動」をとらないように気をつけなければなりません。
最後に、自分の正しさにこだわりすぎないことが重要です。
自分が正しいと思っていても、それは主観的なもので、客観性を欠いてしまうことがあります。
また、自分が正しいと思って制裁行動をとるとき、制裁行動そのものが間違っている可能性があることにも、注意を払いましょう。